旅の途中



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未来のOwnershipのカタチ


a0158818_15231178.jpgソーシャルビジネスの為の新しい法人格、実はずっと気になっていて、大学院で一本レポートを書いたりしていた。日本ではほとんど話題に上がらないけどアメリカではこの4、5年でLow Profit LLC(L3C)Benefit CorporationFlexible Purpose Companyと続々新たな法人格が提案されていて既に10以上の州で法が施行されている。イギリスでも2005年にCommunity Interest Companyという新たな法人格が誕生し既に6,500社が登録しているとか。

社会的なミッションの為に存在するけれども助成金などに頼らず事業収入を得ながら自立的に運営していくソーシャルビジネス。こういった団体にとってNPOの形態では市場からの柔軟性の高い資金調達が困難。とはいえ株式会社とすると事業が成長して外部の株主が参画する際にミッションドリフトを起こすリスクと直面する。

そんなジレンマを解消しようというのがこういった新しい法形態なのだ。例えばアメリカで拡大傾向にあるBenefit Corporationは定款に社会・環境インパクトの創出を組織の最大ミッションとすることが定められ、会社の経営陣は株主利益の最大化という義務を負わない、と明記されている。これによって社会・環境インパクトと経済的インパクトの両立を目指すというトリプルボトムラインの追求がより容易になるというわけ。

とはいえアメリカのこのシステム、定款で「ソーシャル優先でよろしく!」と宣言しているだけに過ぎず、果たしてソーシャルとファイナンシャルがトレードオフになった時に本当にソーシャルを優先できるのかどうかはその時の経営陣の心意気に掛っている。

生ぬるい!

と血気盛んな大学院生だった私はもう一歩踏み込んだイギリスのCommunity Interest Company(CIC)の方がスキ!だった。そのCICを運営している人に英国出張中に会うことが出来た。

CICは株式を発行出来るNPOのようなもの。基本的には英国法上のLimited Companiesでガバナンスの形態は株式会社と同様。ユニークなのは社会的なミッションに基づいた組織であるという政府機関からのテストをクリアしなきゃいけない、ということと‘Asset Lock’と言って組織の資産の取り扱いに制限がかかっていること。基本的にCICの資産は株主ではなく「コミュニティ」(地元のコミュニティでも受益者グループでも国際社会でもよい)に属している。Ownership、会社は誰のものか?みたいな根源的で社会学的な問いに突っ込んでるあたりがアメリカのB Corporationとは違う面白さがあると思うのだ。

具体的な制約として、例えば株主配当に制限がかかっていたり(株式価値の20%まで)、株式の売却は通常の会社ではなくCICやNPOにしか行えない。

この辺り、投資の流動性を下げるからと投資サイドからは反発も多いらしい。とはいえ全国で6,500社の登録はすごい。日本の上場企業数って2,000社超なわけだから、これだけで十分取引可能なマーケットになっていると言えないだろうか?開始から7年で配当を実施したのがたったの2社しかないらしいのでもちろん市場と言えるような状態ではまだないけれど、今後の展開はとても楽しみ。

会社は株主のものではない、という主張が力を増すについて社会の制度がそれを具現化し始めている。

社会がビジネスに求める役割が変化している証拠。法人格という器の形の急速な進化はまさに社会的要請の高まりを映しているのだろう。最近、社会が変わるということはアクター間の関係性やパワーダイナミクスが崩れ、再定義されることなのかも、と思ったりする。企業活動において最もパワフルだった株主の制度的ポジションが危うくなっているということはまさに社会の変化の象徴。日本でも、既に起こっている未来。
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by nanacorico0706 | 2012-05-06 15:33 | 勉強

社会学を勉強しています


勉強、と言ってもそんな大袈裟なものでもなく、本を読んでいるだけなのだけど、あえて「これは勉強だ」、と決めた。暇つぶしに本を読む、という姿勢ではなく学習モードで本を読んでちゃんと文章に残す、と決めたのだ。

留学中の2年間は勉強ばっかり。帰国して社会の荒波に戻るにあたって、あの2年間の知的興奮状態をどうにか実社会の忙しい毎日でも維持したかった。机上で空論をこねくり回しながらも、きちんと眼前の社会でもがく、ということをやっていきたい。議事録とか稟議とか根回しとかに愛情こめつつ、理想とは何ぞや、ということを考えるスペースを脳内に確保したい。というのが目標。

「民が民を支える社会を作る」、とか「ビジネスを通した社会課題の解決」、という仕事上の旗印はあれど、現実には社会を構成する一つの組織体の中の一人の非力な人間として小さな小さな積み木の一つを動かすことにもひーひー言ってるのが毎日なわけで。小さなことを積み上げるのがもちろん大事だけど、その先にある大きな絵がだんだんぼやけていくのはいかん。大きな絵にも毎日向き合って、修正して、手を加え、ということを日常生活に組み込みたいと思った。

で、「勉強」を続けることを決めたのだ。なるべく毎日の業務と関係ないことがいい。なるべくマニアック且つ高邁ですぐには役に立たなそうなものがいい。実用的というよりは知的興奮を感じられるものがいい。と、考えた結果、大学院の授業で最も鳥肌立ち率が高かった社会学系のテーマに絞ることに。

竹内洋さんという学者さんが言っていた。社会学の面白さは「公式的見解や表明の背後にある構造が見通され『ものごとは見かけ通りではない』として現実感が一変する知的興奮にある」と。そこからふーんなるほどね、で終わるのでなく、懐疑的になったり、皮肉っぽくなってしまうのではなく、もっと素敵な未来の可能性を探るヒントを得たい。社会の現実をクールに見つつもちゃんとその社会のなかでもがく、あがく、暴れる。それが大事だと思うのです。

ある人が社会学的理解は、人間の営みを「社会的カーニバルと見る喜劇の感覚」だと言った。そこにあるのは悲嘆や諦めではない。人生は一幕の劇に過ぎない、というぐらいの達観。よくよく考えてみると毎日くだらないことにあたふたしている私ってば笑っちゃうわ、というヘラヘラした感じ。それでも一生懸命、社会をより良くするために身を尽くそう、という覚悟。と、同時にとりあえず好きな人と好きなご飯食べれて幸せ!みたいな瑣末なことに胸いっぱいになっちゃう自分を愛おしいと思う素直さ。

内田樹さんがどこかで、高邁な哲学的内省を継続する為には深い深い思考のプロセスが閾値を超えたところで「ま、そんなこと考えてもらちがあかないから、もういいや、ラーメンでも食おう」という日常的なリアリティへの帰還が肝要だ、と力説していた。あのデカルトにもラーメン的帰還先があったらしい。曰く、「第一の格率は、私の国の法律と習慣とに服従し、神の恩寵により幼児から教え込まれた宗教をしっかりと持ち続け、他のすべてのことでは、私が共にいきてゆかねばならぬ人々のうちの最も分別ある人々が、普通に実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見に従って、自分を導く、ということであった」

あのデカルトも答えの出ない哲学的難問は目の前にぶら下げつつ、とりあえず今日のところは普通の人の普通の感覚に従おうとしていたのだ。

能力も無いのに世の中の難問をうんうん考えてどたばた走り回ってる私も十分喜劇だけれど一幕のカーニバルなら思いっきり笑える感じに仕上がれば宜しい。閾値を超える前に早々ラーメンに帰還しがちではありますが、知的修養を積んでいきたいと思います。役に立たなそうなオススメ社会学名著、教えて下さい!
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by nanacorico0706 | 2011-10-15 22:40 | 勉強

戦略的デカップリング


BOPにしてもインパクトインベストメントにしても、最近の市場機能を重視した貧困削減の手法のベースには「既存の経済システムはもっと貧しい人に開かれるべきだ」という考え方が有る。Inclusive Capitalismという言葉に象徴されるように、一部の豊かな人が属する資本主義システムに最貧困層も参加してもらおう、というのがBOP論者の倫理的コミットメントだと思う。

Inclusive、つまり貧しい人を既にあるシステムにInclude(包含)していく、取り込んでいく、参加してもらう、ということ。それによって貧しい人もグローバル経済の恩恵を受け、貧困を克服していく、ということ。

聞こえはいい。

が、貧困削減を掲げてInclusive Capitalismを語るとしたら一歩進んで問うべきは「どういった形でIncludeされるべきか?」だと思う。長期的な影響を考慮しない安易なマーケットへの統合は貧困層の生活を悪くするだけの場合だって大いにある。多国籍企業の工場で搾取労働に従事することがinclusiveか?先進国企業の売る遺伝子組み換え種子に一生依存しなければならないような生産性向上プロジェクトが本当に貧しい農家の生活を改善するか?BOPビジネスと称してモノを売ることが貧困層にとって最も好ましい市場への参加のカタチなのか?

グローバルなバリューチェーンが所与のものとなった今、Inclusive Capitalismが「聞こえがいい」だけで終わらない為には、如何に国際的な経済システムと繋がるか、と同時に如何にそこから「断絶するか」も実は重要なテーマなのではないかと思う。やみくもにInclusiveにするのではなく、きちんと価値を得られるところではカップリングし、そうではないところでは戦略的にデカップリングする。凸と凹を作る、ということが本当に貧困削減に寄与するグローバリゼーションのカタチなのではないかと思う。

というふうに思うに至ったのはマダガスカルの農家のケーススタディを読んだからなのだ。アフリカの農家とグローバルバリューチェーンというと、伝統的農法に基づいて複数の作物を育てる自給自足に近い生活から一種類のみの穀物を植えるキャッシュに依存した生活への移行によって、所得が増えると思いきや食糧の世界市場価格に翻弄されて余計に貧窮する、といった過去の苦い歴史のイメージが強い。グローバルマーケットへの完全な依存は逆に貧困層の生活の脆弱性を高めてしまう、という悪例。

翻ってこのマダガスカルのケーススタディは「うまく行くケースもあるよ」というもの。ざくっと言うとマダガスカルの小規模農家が生産した特殊な豆を欧米の高級食品会社向けに卸すというもの。品質管理や生産性向上などの技術やトレーニングはマダガスカルの輸出会社が提供、生産された豆は地元の市場価格よりも高く買い取られ、インフレ時には特別に価格も連動する、という処置をとった。この会社、立派。輸出会社の提供したコンポストを作る技術などは他の土地にも転用され自給用の食物の生産性も向上するなどの波及効果もあったとか。

面白かったのは輸出会社と契約を結んでいる小規模農家の殆どが家計で消費する為の食糧の生産を継続していること。高級な豆の為に割いている土地は数%程度であとは地元のマーケットへ売るお米や、自給自足に充てられている。つまり完全なマーケットへの依存はせず、ある意味多角化とリスク分散を行っている。高級豆の栽培で得られたキャッシュは収穫が減少する季節に食糧を得る為に使われ、この季節に激増する病気の減少につながる。

なんでこの会社が小規模農家をそんなに大事にするのかは論文からだと良く分からないが、貧困層にとって有益なカップリングの好例だと思う。逆に言えば、完全な市場への統合ではなく、部分的にデカップリングしている(自給自足も継続)点が重要なのではないか。

既存のシステムを良しとしてとりあえず大事なのはInclusionでしょ!という説と、既存のシステムを悪としてとにかく伝統的農村を守ってグローバル経済から隔絶すべし!という説の二項対立を超えて、グローバル経済と繋がるところと離れるところとを個別具体で戦略的に考えていくべきなのだと思う。
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by nanacorico0706 | 2011-05-18 12:02 | 勉強

No name no life


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名前というものはすごく大事だということを最近考えている。もしくは名づけるという行為。

私の尊敬する叔母が良く若い母親である姪っ子たちに対して「キツイことを言う時やカッとなった時ほど、子供の名前は「ちゃん」付けで呼びなさい。ななこ!ではなく、ななちゃん、と呼び掛けた瞬間に少し怒りが和らいでちゃんと子供の心に届く叱り方が出来るから。」と語っていた。本当にそうかも、と思う。呼ぶほうも呼ばれるほうも、発せられた言葉に乗せられた、言葉を超えた様々なメッセージを受けとめているのだろう。

ほんのすこーしかじっただけですがソシュールという言語学者が名前というのは既に存在する概念に与えられるものではなく、名前をつけた時に初めてその概念が生まれるのだ、というようなことを言っていたとか。内田樹さんによるソシュールの解説からの引用。(この本超おススメです!)

言語活動とは「すでに文節されたもの」に名を与えるのではなく、満点の星を星座に分かつように、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。

唸った。

名前を与えるという行為が私たちの思考を決定し、概念の意味を形作り、それを固定化していく。意味を得た名前は、その概念を表すものとして一定の範囲内の人々に受け入れられ、客観化されていく。

名前について考え始めたきっかけは今書いている社会投資に関する修士論文。社会投資、という新しい試みの本質は何なのか、開発の文脈においてどんな可能性と限界を秘めているのか、というのが自分の関心。この問いに答える為に、去年授業で出会った制度論(Institutional Theories) のフレームワークを使って社会投資の実践を解剖してみよう、というところまで行きつく。制度論のフレームワークで重要とされている一つの要素が、あるものごとが社会においてどういう風に認知され、理解されているか、という観点。言語や名前というのはそれを読み解くもっとも重要なカギだ。

社会投資のアプローチで使われる「名前」たちは従来の開発手法から大きく変化している。寄付ではなく投資、受益者ではなく消費者、開発実務者ではなく投資マネージャー、ニーズではなく需要、地域のリーダーではなく社会企業家、社会貢献ではなくビジネス、etc…

毎日のルーティンに登場する言葉たちも、ポートフォリオ、パイプライン、レバレッジ、Due Diligence、IRR、IPO…..と、メインストリームの投資業界と大差ない。

例えばお金をある団体の元へ流す、という同じ行為だとしても、これまでそれをチャリティと呼んでいたのに対し、社会投資ではそれを投資と呼ぶ。中身は一緒、名前が違う。何が起こるか。新しい名前を与えられた概念、もしくは事象がむくむくと変質していくのではないか、ということ。名前がつくことでその名前を表象する観念が私たちの思考の中に生まれ、その観念を体現するように私たちの行為が決定されていくのではないかと思う。

最も貧しい人に商品が届かないのは納得いかん、と言う私にその商品を作っている「社会企業家」さんは言った。「私たちは人助けをしているのではない、『ビジネス』をしているのだ。儲けを出さなきゃ死ぬんだから出来ることと出来ないことがある。」 ソーシャル「ビジネス」、という名前を得た瞬間に私たちの思考はビジネスというものにくっついた観念を引っ張り出して新しいこの試みを具象化していく。そこには法的に営利企業、という無機質で構造的な事実だけでなく、社長さんの頭のなかで構築された「営利企業というのはこういうものだ、だから私はその規範にそって行動するのが当然」という解釈と認識がある。ソーシャルビジネスという言葉は新しい試みに与えられた名前である以上に、無数の人々の解釈、再解釈、によって変化しつつ固定化されていくダイナミックな概念なのだと思う。

確立した新しい投資の実践に「社会投資」という名前が与えられたのではなく、新しい名前がついたことによってその概念や観念が私たちの思考を支配し始める。貧しい人たちを「消費者」と呼ぶこと、投資先の社会企業を「ポートフォリオ」と呼ぶこと、痛みを伴った何かの不足を「満たされていない需要」と捉えること。こういった言葉の再構成が実は言葉遊びではなく、私たちの思考と行動を決定していくのだと思う。

だとしたら、名前に用心したい。どう呼ぶか、どう呼んでしまっているか、どうして私たちはそう呼んでいるのか。そして、その名前を使うことによって私たちの思考と行動がどう変化するのか。

尊敬する叔母が「ちゃん」付けで私を叱ってくれたように、人と人の距離が離れるよりは近づくような呼び名で満たしたい。それが従来の投資ではなく社会投資、なるものに要請されていることだと思うから。
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by nanacorico0706 | 2011-02-25 11:48 | 勉強

DEAD AID と DEAD RACE


a0158818_13352481.jpgDead Aidで有名なDambisa Moyoの講演を聞きに行った。
開発援助はアフリカの経済の根本的問題を解決しないばかりか、経済成長を害している。というのがその主張。エコノミストらしく数字をちりばめながらの援助ダメダメ議論は説得力大。経済活動のインセンティブを与えないままお金を投入するだけの援助はインフレを招き、政府高官の腐敗を定着させ、民主主義の土台を壊し、途上国の債務を増やしただけで何もイイことはなかった。と。納得。
会場の皆さん、アフリカの首相や大統領の名前を何人言えますか?アフリカで貧困削減を掲げてお金をばらまくセレブの名前の方が多く知っていませんか?私はこの状況が許し難い、という言葉は切実。

が、ソリューションは?という段になって彼女が語ったのは貿易と投資の促進、とにかくマーケットを機能させよ、というもの。成長、成長、成長、そこから税収が生まれ、教育も、貧困も、保健も、援助に頼らず私たちの政府が自立して提供していけるようになる。政府は援助資金を一切断ち、市場が機能する為の最低限のインフラを整えるべし、と。

・・・うーん、結局彼女が痛烈に批判した世銀とIMFが80年代からやっていた構造調整と同じ議論。彼女はしきりに中国を引き合いに出して、如何に市場開放が今の急成長に繋がったかを強調していた。アフリカの国々も中国を見習って、市場を開放し、どんどん貿易して、外資を呼び込んで、徐々にグローバル経済の階段を上がっていくべきなのだ、と。

この、お決まりの世界観。アメリカをトップとしたGDPで構成された経済ピラミッド。もしくは1位から最下位まで経済的な豊かさに沿って積み上げられたまっすぐな階段。途上国、という言葉が示す通り、彼らはその階段を上っていく途上にある、という世界観。

あまり多く語られないのは階段を一段上るということはどこかの国が一段降りなきゃいけない、ということだと思う。グローバル経済の競争に参加するということは、もうものすごいスピードで追い上げたり追い越されたり、勝ったり負けたり、熾烈な戦いをずーっと続けることだと思う。ずーっと。つまり、この競争のプレッシャーは開発途上にある国だけが感じているのではない。70年代のアメリカが日本の製造業の生産性に負けて危機に陥ったり、今度は90年代以降の日本が中国の製造業の生産性に負けてすっかり元気無くなっちゃったり。階段を上りきった国々が余裕の面持ちで途上にある国を迎え入れる、なんて構図は存在しないのだ。

このエンドレスな競争の中で、途上国もみんなどんどん成長して豊かになりましょう、と言えるとすれば、最終的に世界経済は一体どういう姿になるんだろう。アフリカの国々がGDPでいつか日本とアメリカをやっつけて世界のトップに躍り出ればいいのか?

本当は世界はそんな単純なピラミッドなんかで成り立っちゃいない。経済大国アメリカは何十万人というホームレスを抱える貧困大国でもある。アジアで最も豊かになった日本は自殺率でも世界トップクラスだ。成長、成長、成長。それが本当に答えなのだろうか?貿易して、市場を開放して、そうすれば日本みたいになれますよ?なんて言えるのか?どちらかというと日本みたいになっちゃいますが・・・だ。

そもそも、全ての途上国が今の先進国並みの生活に追いつくには地球があと4~5つは必要とも言われている。先進国を目指せ!は、もはや現実的な開発観ではない。代替案は何か?を探っているのが今期取っているアフリカの経済開発とグローバリゼーション、の授業。グローバルではなくてリージョナル経済の可能性、Embedded Economy、と呼ばれる伝統的な経済システムと市場経済の融合、そしてSocial & Local Entrepreneurship。GDPだけでは語れない、眠っている可能性や小さな成功に光を当てていきたい。
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by nanacorico0706 | 2011-02-16 13:40 | 勉強

マルクスに恋をする


あっという間に9月終わってしまった・・・。アメリカに戻ってきて早1か月。今学期は超ヘビー級の授業を取ってしまい四苦八苦中。『経済地理学』なるもの。

現代の経済学の礎を築いてきた人たちの原文を読む、というとてつもない授業でアダムスミス、リカード、マルサス、マーシャル、マルクス、ハイエク、ケインズと辿ってきた。生徒たったの7人で私意外全員博士課程に所属、私、完全に場違い。

100年も前の英文を週に500ページ読むというのはもう半端ない。でもめちゃくちゃ面白いのだ。資本主義ってなんだろう、ということについて考え続けている。

マルクスがすごかった。マルクス主義というとどうにも現実離れしてて感情的で熱くって・・・というイメージがあったのだが実際はイデオロギーとしてではなく理論としてパワフルだった。ほんの一部しか読んでいないけど、今となってはだれも疑うことのない現代の経済システムの本質をえぐる、私の商社時代もえぐる・・・

社会人になった瞬間、売上からコストと経費引いたら利益ね、というのが常識の世界に放り出されて、それがこの世の中のルール、ということを疑いもせずにきたけれど、歴史をたどって、このルールってそもそもどうやって決められたのか?を見に行くというのは非常に興味深いタイムトリップ。

読みながらロンドンの不動産市場で投資家の間でお金がお金を生んでいくシステムに「なんでこうなってんだ?」と不気味な想いを抱いていたのを思い出す。そのシステムから飛び出してこうして外から眺めるというのはすごく貴重な機会だ。

世界的な経済格差が毎年記録更新していて、持続可能性を真剣に考えなきゃヤバイ、という時代。Outside Boxで考える、ということはさかんに言われているけど資本主義というBoxから飛び出そうとしたのはマルクスだったのだと。学生というなんの縛りもない世界に身を置けるのも後1年足らず。この授業に食らいついてまずはこの箱の本質を自分なりに理解したい。頑張ります。
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by nanacorico0706 | 2010-10-02 12:30 | 勉強

グローバリゼーションは跳ねる


ようやく今学期も終了!留学生活も折り返し地点、あと1年!
卒業後どうすんだ?と考え始めると不安もあるけれど、毎日知的興奮に溢れた学生生活と言うのは本当にかけがえない。学ぶことの何がそんなに楽しいのか、と立ち止まって考えてみると、既成のものの見方ががらがらと崩れる瞬間のあの快感だと思う。景色ががらりと変わるあの瞬間。

本当のソーシャルチェンジは人々の世界観が変わる時に起こるとすると、社会科学の果たす役割って実はとても大きい。人の世界観を変えるのは直接の経験だけでなく書物や伝達の場合も多いのだから。

そういう意味でへええ~ととても気持ちのいい見方を変える体験をさせてくれた論文がJames Fergusonの'Seeing Like a Oil Company'.

グローバリゼーション、というとどんなイメージを抱くだろうか?国境を越えたモノ・ヒト・カネ・情報の移動の加速・増大。多国籍企業の発達と経済の相互依存性の高まり。結果として、国家という単位の希薄化、政治・経済・文化の均一化、標準化が進む。今や大半の途上国で携帯が普及しているし、コーラが飲めるし、ハリウッド映画が見れる。企業はどんどん海外に進出し、アマゾンの山奥にまで海外資本が資金を投げ入れる。

文化人類学者のJames Scott曰く、「大規模な資本主義は均一化、画一化、単一化の主体である。今日、グローバル資本主義は最も強力な同質化の推進力となっている。」グローバリゼーションと聞くと、こういった文化・経済活動がアメーバのように国境の垣根を越えてすみずみまで均質化していくイメージが一般的ではないだろうか?

Fergusonの論文はこの既成概念に疑問を投げかける。彼は、現代の資本主義において、資本は「Flow(流れる)」のではなくむしろ「Hop(跳ねる)」、と説く。この空間イメージを鮮やかに描く例がアフリカの最貧困国アンゴラにおける石油採掘プロジェクト。アンゴラは豊富な天然資源のお陰で世界有数の石油輸出国だが、実際には採掘地はアンゴラ本土から遠く離れた海上に有り、多国籍企業の私設警察に厳重に守られてアンゴラ人は殆ど接触していない。現地で雇われている人はごく少数で、働いている人はヘリで採掘地に出勤、アンゴラ本土を完全にバイパスしている。石油の輸出で政府は年間5000億円の収入を得ているが、公共政策には活用されていない。

グローバル資本は投資先のアンゴラを均質化するどころか、オイルの眠る海上の一点目がけて飛び込み、本土には一切その恩恵は及ばない。グローバル資本は流れない、跳ねる。結果、上空を飛びこされた地上の人々にはその資本も経済活動も一切接触しない。

興味深い対比はグローバル化がもてはやされるはるか昔、植民地時代のアフリカの天然資源開発の様子。植民地会社は植民先に大規模な町を形成し、住居、学校、病院なども建設、現地の住人を巻き込んで大規模な採掘事業を推進していた。結果的にこういった企業の進出は西欧文化、経済システムなどの移転に繋がり、近代化の橋頭堡となっていく。要するに、植民地政策の方がよっぽど均質化を伴っていたということ。

「グローバル資本主義はアフリカを見捨てたわけでも、グローバリゼーションの均質化・同質化の威力で席巻したわけでもない。むしろ、資本は『役に立たないアフリカ』を飛び越し、天然資源の豊富な一点にのみ舞い降りる。結果として、国家という枠組みの均質化は起こらず、代わりに、枠組みから排除された広大な大陸がグローバル経済から取り残される」

グローバリゼーションのもたらす同質化に警鐘を鳴らす論説は多いけどそもそも同質化ってホント?というところをえぐっているのが面白い。同質化が良いとか悪いとかの価値判断ではなく、既成のイメージに違う角度から見るとこうも見えますよ、と提言している、うなる。

改めて、社会科学における学問の価値というのは知っていることではなく、本質を嗅ぎつけること、見極めることなのだと実感。同じ事実を切り取っても違う景色が見える。今学期イチの「ah hah!」な論文でした!
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by nanacorico0706 | 2010-05-09 06:44 | 勉強

BOPセミナー


タフツ大学フレッチャースクールで開催されていたセミナーに参加。テーマは'Japanese Corporations and Bottom-of-Pyramid Business'. フレッチャーの教授Prof. Partha Ghosh、Prof. Jenny Aker、Kopernik代表の中村さん、日立のRepresentative and Senior Manager秋山さん、という顔ぶれ。いくつか印象的だった点をメモ。

*現地のentrepreneurが大事。
言い古されていることだけどBOPは先進国の技術や商品をダウンスケールして途上国に移転することではない。現地の社会・文化に根付いているentrepreneurを探し彼らと一緒になって事業を作っていくことが大事。現地の起業家を育てる社会インフラ、インキュベーター、マイクロ投資。

*ローテク、ハイデザイン
BOP層が求めている商品やサービスは技術的には非常にシンプルだけど斬新なデザインやアイディアで貧困層が直面しているチャレンジに応えられるもの。日本の企業に求められているのはハードテクノロジーではなくソフトテクノロジー(カンバン方式、カイゼン方式などのプロセス、手法)

*価格の壁・政府の機能
やっぱりまだ高い、というのが総意。Kopernikのモデルはそこをマイクロサブシダイズ(ミニ補助金?)というコンセプトで個人からの寄付を集め、現地のNGOをサポートしている。政府の関与は期待していない、政府は機能しない、と仰っていた。マーケットアプローチに限界があるのは分かるが、市場の失敗を是正するはずの政府が失敗している。とも。
政府ってなんだ?というところの理解がまだまだまだまだ弱い。どうして機能しないのか?なぜ腐敗するのか?政府は社会の公平性を担保する最後の砦にはならないのか?NGOが最後の砦?公共性ってなんだ?政府は本当に非効率なのか?何十年と国際機関がガバナンスを推奨してきたのになぜ変わらないのか?政府を変えるのは誰か?

Prof. Ghoshの最後のコメントが印象的だった。「あなた達の世代の課題は資本主義を再定義することです。最も抽象性の高いレベルでは資本主義でもない社会主義でもないNext ismを思い描いて下さい。同時に、もっとも抽象性の低いレベルで、マイクロボランティアリングを実践して下さい。一人一人の小さな行動が調和して新しい経済システムを作っていくのです」
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by nanacorico0706 | 2010-04-03 12:18 | 勉強

コミュニティ幻想


BOPアプローチを使った水供給は従来の大規模・集中型の設備ではなくdecentralized(分散型)のサービス提供が共通項になっている。decentralizationのレベルはさまざまで最も小規模化したLifestrawPuRのような個人ベースのソリューションからWater Initiativeのような家庭向けソリューション、Water Health International のようなコミュニティごとの水提供まで。あまねく皆が水にアクセスできる、という開発的発想に基づいて考えた時、私はやっぱりコミュニティベースの形式が最も良いのではないか?と考えていた。村単位の結束を利用して共同管理をすることで価格も安く、Aさん家は持ってるけどBさん家は持ってない、みたいな不平等感を軽減できるのではないかと考えていた。

が、先日の授業で読んだ論文・・・コミュニティ幻想。

「コミュニティ」という概念は均質性が高く、結束した歴史的で安定的な社会構成要素と見られがち。実際にはその内部で対立、交渉、受容と排他、パワーバランスが有り、コミュニティどうしの境界は容易にシフトし曖昧になる。開発実務者はコミュニティはあらゆる問題に対処できる、という幻想や先入観を捨てるべき。

盲目的にそう信じていたわけではないけれど、確かにコミュニティという響きにかなりポジティブな偏見があったように思う。「ローカルコミュニティ」、というと人々が利害を共有していてその土地に昔から有るルールで限られたリソースを持続可能な方法で分かち合う美しい共同体をイメージしてしまいませんか?現実そう簡単じゃないと分かっていても、何かそういった人間の集合体に期待を抱いてしまう。特に途上国には先進国が失ってしまったそういった人間の本来の姿がある、みたいな使い古されたイメージがある。実際にはそんなに美しくない。

深く掘っていくと、もっと根源的・哲学的問いかけにぶつかる。人間は本質的に自分の利益を優先させる合理的な生き物なのか、それとも共同体としての利益を考える社会的生き物なのか?自由主義経済学の文脈では前者が主流なわけで、こっちの見方が現代社会のあらゆるところに浸透しているのではないかと思う。開発プロジェクトでも個人のインセンティブに影響を与えるか、といった視点はさらっと自然に出てくるもの。

例えば水。これは生命の源、自然の恵み、だけど、経済学ちっくにとらえれば飲める水は希少な資源。となるとこの資源は価格を与え、共有物ではなく個人に所有権を持たせることで個々人の資源の有効な活用へのインセンティブを高め、結果的に全体の利益も最大化する、というロジックになる。前提として、お金を払って買ったもの、自分だけの所有物なら共有のモノより大事にする、という人間観がある。しっくりくるような、こないような。

本当にひだのひだをひも解けば、どちらでもなく、どちらでもあるんだろう。私たちの毎日の小さな選択がそうであるように、合理性と効率性と自分の利益を追求する態度と、コミュニティに属すること、他人に奉仕をすることに満たされたりする感情と、混沌とした行ったり来たりで人生が進んで行くもの。

早く現場に出たい。もっと混乱するだろうけど、「ひだのひだ」を知りたい。答えは一つではないし、普遍的ではないのだから、現場に行ってもう一度悩み直したい。
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by nanacorico0706 | 2010-03-19 09:46 | 勉強

中国の参加型開発パイオニアのメッセージ


Go to the people

Live among them

Learn from them

Plan with them

Work with them

Start with what they know

Build on what they have

Teach by showing

Learn by doing

Not a showcase

But a pattern

Not odds and ends but a system

Not to conform but to transform

Not reliefe but release.



by Dr. Y.C. James Yen
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by nanacorico0706 | 2010-03-18 13:08 | 勉強


2年間の米国留学生活をゆるゆると綴ります・・・
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