旅の途中



カテゴリ:読書( 10 )


『Start with WHY』



a0158818_18565100.jpg
人が行動を起こす時のスイッチになるのは何だろうか?
ということを最近よく考えている。
社会をより良い方向に変えて行くには多くの人が行動を起こす必要がある。
その行動を起こすきっかけになるのは一体なんだろう?

ということを話し合っていた時にある人に勧めてもらったのが『Start with Why』. Whyから始めよ、という本。著者いわく、人が行動を起こす時のスイッチはモチベーションではなく、インスピレーションらしい。

人の行動を促そうとコミュニケーションを取る時、私たちはどうも「何を=what」と「どうやって=how」を説明したがる。が、実際に人の意思決定を促し行動を起こすのは「なぜ=why」のところだという。

なぜ、何のために?それは人や組織の価値観やビジョンそのものに触れる。

頻繁に取り上げられるのはAppleの例。Appleの製品が消費者から絶大な支持を得ている理由はipodというもの=whatの品質が素晴らしいこと、その作り方=howがとってもシンプルで美しい、ということにはない。実はAppleが提示している世界観「既存の価値観を覆し、常に今までと違った視点で考えること」に消費者が「インスパイア」されている、という。

消費者は製品そのものの品質を他と比較して優れているから買うのではなく、Appleという会社やブランドに共感したり憧れたりなんとなく惹かれている。結果的にその人たちはAppleが作ったものなら何でも買いたくなっちゃう。Appleは既にコンピューターのメーカーではなく、「既存の価値観を覆す」ことを標榜した一つのソーシャルムーブメントであり、消費者がその大きな流れの一部になりたいと願うのだ、と。

安くて新しい機能があるから買う、という「モチベーション」のレベルではなく、言語化出来ないような「インスピレーション」のレベルに人の行動を促すヒントがあるということらしい。

だから、自分たちのやりたいことを誰かに説明するときにはwhyから始めなければならない。なぜそれを私たちがやるのか?
どんな世界を思い描き、目指しているのか。
ここに共感してもらった瞬間にそこに行きつく為に「何を」「どうやって」やるか、というところは自然と付いてくる。

企業と一緒にCSRのプロジェクトを立ち上げる時、企業にとってのメリットは何か?ということを考えがち。
マーケティング効果がある、新規ビジネスの立ち上げに繋がる、より企業の特性が活かせるプログラムになる・・・
こういう「インセンティブ」では1度は事業を一緒に出来たとしても長期的に付き合っていくのは難しい。
目指すべき未来社会の姿を共有できれば、そのビジョンの元に長期にわたってあらゆるアプローチを検討できる。
ビジョンが企業自身の掲げるビジョンとシンクロすれば経営戦略の軸に社会イノベーションを織り込むことだって。

Whyから始めることは他人の行動を促す為のルールに見えて実はインナーコミュニケーションとしてもとても大事。
私は何をやりたいか?ということは結構自分に問うものだけど、なぜそれをやりたいか?を問うことは少ない。
何のために生きていくんだっけ?というところが明確になっているときっとそこを目指す為の道の険しさや日々のむなしさなんかが平気になる。愛おしくさえなったり。

企業の行動変容を促す、という大きすぎる目標を掲げているのが今の仕事。企業だって個人の集まりで、日々多様な人と出会いながら一緒に行動を起こしてもらえないか、ということを押したり引いたりしているわけです。
もっと私たちの、私自身のwhyをクリアにして、世界観を共有して、まずは小さな傾きを作っていきたい。
いつかその小さな傾きが大きく流れを変える。

TED talkはこちら
[PR]
by nanacorico0706 | 2012-06-28 19:04 | 読書

マルセルモース 『贈与論』


a0158818_22324720.jpg 文化人類学をかじった人にとっては古典中の古典、贈与論。大学院の授業で読んだ時は膨大なリーディングの量に発狂しかけてた時期でちゃんと読み込めなかったので日本語で再読。面白かった!!

内容については既に色んなところで紹介されているけど共同体間における贈与行為を通した一種の経済活動が市場経済よりももっと普遍的広範囲に発達していたことを「未開社会」の研究を通して明らかにするもの。自給自足→物々交換→貨幣経済みたいな単線的発展観に基づく社会学のアプローチに疑問を投げかけている。

例えばメラネシアではあるモノが部族から部族へと海を超え何十年という時を超えて受け渡され、もともとの所有者に戻ってくるkulaという一大贈与プロジェクト的なものが行われていたとか。わたしたちから見れば未開社会にしか見えないこの地域でグローバル経済顔負けの島を超え言語の違いを超えた極めて複雑に発達した交換の体系が成り立っている。

こういった贈与経済の仕組の面白さはその「複合性」「雑種性」にある、とモースは言っている。それは法的であり経済的であり神話的であり象徴的であり道徳的であり宗教的である。つまり、全てを包含している。モースの言葉でいうと「全体的」なのだ。

贈与、もしくはGiftというと現代人の感覚からすれば純粋な倫理・道徳観に基づいた慈善を思い浮かべがちだが、モースが取り上げた贈与行為はもっと複雑。有名なポトラッチは自らの部族の豊かさを示し社会的価値を上げる為に、受けた贈与を超える贈与を返すという相互行為が延々と繰り返される。お互い相手を上回るものを返すわけだから必然的に贈与は豪奢を極め、どんどんエスカレートし、最後には部族ごと滅ぶに至ることもあったとか。それは競争に勝ち権威を保つための打算ともらったら必ず返さなければならないという義務感とがないまぜになった行為。

贈与は義務感と自由意思、俗っぽい打算と高貴な道徳観の混成体なのだ。
考えてみれば私の今いる業界は贈与経済に見られたような「雑種性」に溢れていないだろうか。
たとえばCSR、なんとなくやらなきゃ、みたいな社会的要請に基づく義務感とともに本当に活動に共感して熱い想いで起こす行動もある。コーズマーケティングで利益上げたい!と言う一見打算的な担当者が、実はその社会課題を真剣に憂えていて会社として何かやらなければ、という正義感に燃えていたりするものだ。

CSRなんて結局は利益を上げるためのポーズに過ぎない、という主張は正しくもあり誤りでもある。それはあらゆる目的や意図が入り混じった企業とそのステークホルダーの相互行為・交換行為・交易行為なのかもしれない。そうあるべきなのかもしれない。

寄付文化の醸成ということを考えた時にもよく思うのは利己性と利他性が混じり合うくらいがちょうどいいのではないかということ。たとえば全国に託児所を作ってくれているNPOに寄付するよりは自分の毎日使う駅前に「皆さんの寄付が5百万円に達したらここに託児所作ります!」という寄付コーナーが設置されたほうが寄付しやすいのではないか。駅前託児所に寄付することは、倫理的に良い行為だからやろう、という想いと、いつか自分に子供ができたら託児所あると助かる、という利己的な想いとのミックスだったりする。寄付してくれたら出来たお野菜を差し上げます!みたいな特典付きクラウドファンディングのシステムも利己と利他の雑種だったりする。

今手放すものが中長期的(もしくは超長期的)には帰ってくるかもしれない、というような期待をもったことでそれはもはや寄付という倫理的行動の範疇を超えて価値の交換の可能性をはらんだ経済活動ではないか。Kulaが大きな大きな環を描いて持ち主に戻ってくるように、「自分のもの」と「他人のもの」のボーダーが曖昧になるような感覚に近い。それは時空を超えた想像力が支える感覚。

私は自分が身を置いているいわゆる「非営利セクター」なるものが近い将来ビジネスセクターを食う新しい経済活動の担い手になっていくと思っている。それはソーシャルビジネスがGDPの成長に寄与するとか投資家の期待するリターンを生むようになっていくとかいうことではなく、これまでの市場経済とは違う新たな経済活動のフィールドを作り、おカネと人材を吸いつけていくセクターにまで育っていくと思うのだ。

そのセクターはもしかしたらモースが未開社会で行きついた「全体的」な社会に近いのかもしれない。それは従来の寄付や助成の生んだ一方通行の依存関係や関係性の断絶とは違う。近代以降の投資や会社経営の商慣習が生んだ独占的で過度に合理的な関係性とも違う。一種の緊張感のある相互依存の関係性、長期的に向き合う交易的関係性。

明日からソーシャルファイナンスのメッカ、イギリスへ行く。アメリカとはまた違った長い歴史に育まれたギフトエコノミーに存分に浸かってきたい。
[PR]
by nanacorico0706 | 2012-03-25 22:34 | 読書

What’s Mine is Yours

a0158818_11444040.jpg

私のモノはあなたのモノ。というタイトルが示す通り、モノを個人で所有する時代から複数の人たちで共有する時代になっていますよ、というのがこの本の主題。世界では今、所有からシェアへのパラダイムシフトが起こっている。

高級車や大きな家、ブランドものを所有することが豊かさであり幸福であった時代は終わった。私たちは所有のマインドセットから脱し、リソースやモノをお互いに共有し合うことに価値を見出している、と著者は主張する。車も家もブランドバッグもシェア。Collaborative Consumptionと名付けられるその消費行動は、他と共有し、協働しあうコミュニティを形成していくのだ、と。

美しいじゃないですか。素晴らしいです。だから、その本質を探りたくて期待大で読んだのだけど、どうにも納得出来なかった。確かに「シェア」を軸とした斬新な事例は山ほど紹介されていた。Craig’s list、Zipcar、Sharable、Couch Surfingなどすごく面白いモデルだと思う。だけど、こういったサービスやシステムを受け入れ始めた消費者の心理の変化に関する考察はあまりにも的外れな印象。著者の分析が正しいとすると、結論、パラダイムシフトなんて起きてない。

映画版Sex and the Cityのこんなシーンが引用されている。
アシスタントを探していた主人公のキャリーのもとに面接にやってきたルイーズ。気に入って採用を決めたキャリーがルイーズに最後の質問。「無職のあなたがなぜヴィトンのバッグなんて持ってるの?」と。ファッション狂のキャリーらしいちょっといたずらっぽい質問だ。ルイーズは恥ずかしがる素振りも無く、「これはレンタルよ」と。Bag Borrow or Stealというブランドもののバッグをレンタル出来るアメリカで人気のサイトで借りたものだ。「なんで知らなかったのかしら?!」とキャリーの驚き&感心で場面は閉じる。



著者は「ルイーズが借り物のヴィトンを照れも隠しもしなかったように、人々は今、シェアすることを誇りに思っているのだ」と言う。

本当にそうだろうか?

あの映画を見た人なら記憶しているかも。映画の終盤、アシスタントを卒業するルイーズに対して、精神的な支えになってくれたお礼にキャリーがプレゼントするもの・・・ウン十万のヴィトンのバッグである。箱を開けて「自分だけの」ヴィトンを見つけたルイーズは発狂寸前の興奮で歓声を上げる。彼女はシェアする行為に価値を見出してレンタルをしていたのではない。本当は所有したかったのだ。自分だけのヴィトンのバッグが欲しかったのだ。どうしても手が出ないそのバッグを仕方なく借りることでやり過ごしていたに過ぎない。ルイーズに限って言えば所有からシェアへのマインドシフトなんて起こってはいない。所有したくても出来ないから疑似的所有の為にシェアをしているに過ぎない。

この矛盾を著者はあっさりと認めてしまっている。「A key to a product service system’s success is its ability to satisfy our deep-seated need to feel like an owner for at least the time the product is in our care.」所有したいという人間の根源的欲求を満足させるような仕組みを作ることがコラボレーティブ消費の成功のカギだと。つまり、著者の言うシェアリングエコノミーとは所有せずに所有する満足感を得る為の仕組というわけ??所有からシェアへ、システムは移行しているものの、その仕組に参加する消費者の意識や価値観はシフトしていない。消費者は引続き所有したいのだ。

この本が描くシェアリングエコノミーのロジックは企業の所有からリースへのトレンドと同じレベルにしか見えない。ここ10年ぐらいで急速に進んでいる企業による資産圧縮。従業員を派遣に切り替えたり、工場を売却したり、自社ビル保有しないで借りる、所有しなくて済むものは所有しない。そのほうが投資効率がいいから。

所有することへの拘りが薄れているのは確かだろう。だがそれは、私たちがより責任ある、協調的な行動にコミットし始めているのではなく、単に経済的な意味でスマートなっているだけなのか?

いや、実際にはそうではない、と信じたい。コレクティブな何かを模索する現代人の心理ってもっと深いところにあるはず。そこがこの本では全く見えてこなかった。

著者は言う。消費者を変えるのではなく、システムをよりサステナブルなものに変えれば良いのだと。個人の利益を追求する消費者が今までもサステナブルでコレクティブなことをしていると気づきさえしないようなシステムに。消費者の意識を変えることなく消費行動を変えさせることがミソなのだ、と。サステナブルな消費が実現さえすれば消費者のマインドセットを変える必要はない、と。

???

社会の変化というのは個人の意識の変化→システムの変化というベクトルと、システムの変化→個人の意識の変化という双方向のインタラクションで有機的に起こっていくものだと思う。著者が想定するようなシステムの中で無意識的に条件反射的に行動するような消費者像にはかなり違和感。

そんな薄っぺらいものではないはずだ。シェアハウスや時間バンク、exchangeやクラウドファンディングのもたらす社会的インパクトの調査とかやったらすごく面白いのではないか。参加した人たちの意識や価値観がどう変化していったか、全く変化しないのか。これだけたくさんの事例をさらって膨大なインタビューをしているのにもったいないな・・・。

シェアリングエコノミー、所有と独占の常識をひっくり返す新たな経済やマーケットの仕組が必要とされていることは確かだと思う。システムの変革も人の意識の変化も同時並行的に起こっていくはずだ。パラダイムシフト、これから。
[PR]
by nanacorico0706 | 2011-12-04 12:58 | 読書

Anthony Giddens 『The consequences of modernity』読了。


a0158818_1664190.jpg邦題は「近代とはいかなる時代か?」

タイトル通り、近代ってどういう特徴が有る時代なの?それまでと一体何が違うの?ということを論じた本。ギデンズは基本的に今の時代はポストモダンで近代は既に終わった、という立場はとっていない。現在というのは近代の究極的な姿、という考え方。

ギデンズが挙げている近代という時代を構成する決定的ないくつかの要素のうち、最も興味深かったのが専門家の存在をベースにした抽象的信頼システム。人々の生活全般が医療、行政、法律、金融など細分化された専門家の提供する知識に依存して成り立っている世界。近代以前は時間と空間を共有した人対人の関係性で成り立っていた毎日が顔の見えない非人間的なシステムによって構成されていく。

専門性に従って細分化したシステムは普通の人には全くコントロール出来ないどころかその仕組を理解することさえ出来ないレベルに複雑化・巨大化していく。この抽象的システムの一例として繰り返しギデンズが言及するのが「核の脅威」だ。核兵器の使用や原子力発電所での事故を引き合いにだし、一般市民が全くコントロールできない脅威と共存することの不可避性が近代の一つの特徴だと指摘している。1990年出版の本なのだけど原発の脅威と向き合わざるを得なくなった今の私たちの状況への示唆が散りばめられていてドキっとしたのでした。

Low probability high-consequence risks will not disappear in the modern world, although in an optimal scenario they could be minimized.

蓋然性は低いけれど起こった場合のインパクトが甚大なリスク、はまさに1000年に一度の脅威に直面した原発事故。巨大で匿名性の高い抽象的システムが支配する世界ではこのリスクの責任の所在も、対処の方法もきわめて不明確。人間社会が創り出したのにもかかわらず、生身の人間の手に負えないほどシステムが暴走する構造は金融危機とも重なる。

こういった社会を前にして私たち市民が、一個人が取る態度とはどういったものか?ギデンズは諦めや悲観主義がまん延すると考える。自分のコントロールの及ばないところで社会は回っているのだ、という宿命主義的態度。前近代の人々がコントロールの及ばない自然の摂理・脅威に対峙して感じた「宿命」という説明が、科学によって自然の脅威を克服してきた近代で別の形を取って再度現前化する。

Fate, a feeling that things will take their own course anyway, thus reappears at the core of a world which is supposedly taking rational control of its own affairs. The sense of dread which is the antithesis of basic trust is likely to infuse unconscious sentiments about the uncertainties faced by humanity as a whole.

近代は科学の進歩によって知の確実性が増したというのは正しくない。近代ほど物事が曖昧な時代はないのだ。どの程度の人がスイッチを入れたらどのように電気が供給されるのか、そもそも電気とは何か?ということを説明出来るだろうか? 

というギデンズの問いかけは正しい。原発の事故発生から流れ出てくる情報の不確かさ、不十分さ、開示のプロセスの胡散臭さ。さらに言えばどんなに正しく情報が提供されたとしても原発の仕組やそのリスクについて私の脳みそでは消化しきれない・・・という無力感。エネルギーという自分の生活にこんなにも密着した事象にも拘わらずまったく自分の理解の及ばないブラックボックスでことが運んでいること。目に見えない放射能がこうしている間に人の体を蝕んでいたらどうしよう、という漠然とした不安感。

横たわるのは現代社会における「信頼」という大きなテーマだ。ギデンズによれば抽象的システムに支えられた現代社会の信頼性はfaceless commitmentによって成り立っている。顔の見えない、匿名性の高い責任。東京電力、とか政府、とか原子力保安院、とか。

政府が言ってるから大丈夫、上場企業だから安全、格付けA+だからOK、みのもんたさんの番組で言ってた(?)、みたいな抽象的システムに基づく信頼感。

過去10年でこのfaceless commitmentに基づく専門家システムに対する信頼が大きくぐらついてきた。偽装牛肉だの不正会計だの企業の不祥事はもうこれでもかってぐらい露見したし、金融危機はまさに複雑化して誰が悪いのかはっきりしないグローバルな構造を世界に知らしめた。肥大化した官僚的な政府は世界中で機能不全が指摘されている。

現代を象徴する輝かしい特質であった高度に専門化された効率的な巨大システムは既に信用失墜して人々は新しいシステムを求めている。すでに信頼性の定義は専門家の評価から市民同士の人気投票的システムにすり替わりつつある。口コミによる一般人の評価、ソーシャルメディアを通したある程度閉じたコミュニティでの情報交換の定着は、信用の定義の無意識的な変質を意味しているかもしれない。

権威に基づく信頼ではなく一般人の一般人による一般人の為の信頼システム。果たしてこのシフトは良いことなのかな?

より信頼が担保される方向に向かっているか?という問いは多分有効ではないのだろうと思う。突き詰めたら、結局何が本当に信頼に値するか、なんて分かんないよねー、というところに行ってしまう。

問題は信頼度の高さではなく、信頼する人間の態度の変化なのかも。新しく起こっているソーシャルネットワーク的信頼システムが面白いのは一般の人たちの能動的な参加を促す可能性があるからだ。政府が言ってるから信頼していいんでしょ、責任取ってくれるんでしょ、という受け身の態度ではなく、信頼するかしないかは私に任されているんだ、っていう自立した緊張感。もし何かあったときは自分でリスクを負わなきゃ、っていう覚悟。信頼システムは外部にある大きくて揺るがないものではなく、自分も一人の参加者である流動的なシステムなんだという認識は前向きな社会参加を促すかもしれない。ギデンズは「市民の無関心」は匿名性の高い近代信頼システムの基本的特徴だ、と言っていた。この無関心を破る鍵がここにあるのではないか。

ギデンズも最終的には個人主義的などうにでもなれ、的態度よりもアクティビズムが勝利する、と言っている。近代システムでは誰ひとりとして「外部者」にはなりえないからだ。
For, to repeat, in respect of the balance of security and danger which modernity introduces into our lives, there are no longer ‘others’ – no one can be completely outside. Conditions of modernity in many circumstances provoke activism rather than privatism, because of modernity’s inherent reflexivity and because there are many opportunities for collective organization within the polyarchic systems of modern nation-states.

一般の人たちの声を取り入れたNPO・NGOを評価する為の新しいシステムを作れないか?というようなことを最近仕事で議論していたこともあってがっつり刺さるギデンズの議論なのでした。

このテーマ、引続き考えよ。
[PR]
by nanacorico0706 | 2011-10-30 16:15 | 読書

『辺境から世界を変える』


a0158818_12462517.jpgTwitterを通じて知り合った加藤徹生さんの本。 正直、企業家一人一人に焦点を当てたルポ、と聞いて最初はそんなに興味がわかなかった。ソーシャルビジネスに関する勉強はある程度してきたつもりなので、「今世界ではこんな面白い人たちがこんな斬新なことやってますよー」的に表面をなぞるような内容だったら少し物足りないかも、と。でも読み始めたら引き込まれて一気に読んだ。

それはきっと加藤さんの「目線」が好きだったからだと思う。つまり、その目線が徹底して本当の草の根のリーダーたちに置かれていて、彼らの心のひだを丁寧に拾っていたからだ。

ソーシャルアントレ、というといろんな文脈で話す人がいるけど実は先進国のエリートがぴかぴかのキャリアを捨てて立ち上げました、かっこいい!!終わり。みたいなストーリーってけっこう多い。貧困層を救うためのソーシャルビジネスの現地オフィスが上流階級のスタッフで固められていて「リキシャ?危ないから乗ったことありません。」と言われてげんなりしたこともあった。資金提供する大富豪やMBA的経営スキルをまとったビジネスエリートが主役のソーシャルビジネスではきっと本当の変化って起こらないような気がしていたのだ。

加藤さんの視点はそこにはない。ことが気持ち良かった。題名が表すように舞台は「辺境」だ。当事者自身が足元から変化を起こしていく。NYやボストンのカンファレンス会場には無かった泥臭さがぷんぷんする。こういうリーダーが他にも世界にゴマンといるとしたらすごい楽しいな、と元気が出た。

一番はっとしたのは事業のノウハウや手法を積極的に公開し同じモデルをどんどん真似してもらおう、とするセルコ社。この姿勢がソーシャルビジネスの本質なんだと思う。

これって簡単なようでスゴイこと。真似した会社に市場を食われて先行者だった会社が立ちゆかなくなることだってもちろん有りうるのだ。ある意味では、それでも良い、という覚悟がなければ出来ない。会社としての未来永劫存続することがミッションではなく、社会にとってベストなソリューションが提供されていること、がミッション、という大前提があるからこそ自らの会社が無くなるリスクも冒せるというもの。市場での競争を左右する指標が利益以外の価値に収斂されていく。まさにスケールアップ(組織としての拡大)ではなくてスケールアウト(モデルの拡散による社会的インパクトの拡大)が問われているということ。

加藤さんはこの拡大戦略の2分類を、両者とも必要で、特に発展途上国のように市場が未熟なところではスケールアウト型で一気に業界を立ち上げるのが良い、と言っている。つまり、業界が成熟すればスケールアップ型の拡大戦略が有効になっていくのだ、という含みがあるのかと。

でも、すごく大胆に妄想すれば、私はビジネスの世界がスケールアウト型がマジョリティ、になれば面白いのにな。と思う。いや、なっていくんじゃないか、とさえ思ったりする。規模の経済を追求するスケールアップ志向の市場が行きつく先はシュンペーターが言っていたみたいなイノベーション無き独占市場なのだとしたら、ローカル事情にカスタマイズされた同種モデルの中小企業がいっぱい、みたいな世界、の方が面白くないか?

市場レベルのリターンを求めるインパクトインベストメントの最近の動向を見ていると、ソーシャルビジネスはこうした投資家を持つことによってスケールアップ型への転換を余儀なくされているのではないかと思ったりする。例えば賛否両論激しいマイクロファイナンスの上場、もっと多くの貧しい人にサービスを届ける為には市場から資金を調達するしかないのだ!という議論が多いけど、株主というステークホルダーを持ちながらスケールアウト型の戦略を取り続けることはやはり難しいのではないだろうか。

加藤さんが提案しているプレーヤー同士の「対話のプラットフォーム」の重要性は多いに納得。でも、ブラックリストの共有だけが本当に意味のある対話とは思えない。ノウハウ、情報、イノベーションが共有され、「スケールアウト」していくようなシステムって何か?加藤さんの問いかけは私も今後の宿題。

「辺境から世界を変える」、の意味はいつか辺境が中心と同化する、ということではない。辺境から来た新しい価値が中心を揺さぶっていくことだ。鳥肌モノのソーシャルビジネスは既存の価値観が定義する「市場」で新しいモデルを創り出していくのではなく、市場を定義する価値観自体を覆すものだと思う。

と、相変わらず考えはまとまらないけれど、色々とインスピレーションを得た一冊なのでした。加藤さん、今週会うから疑問をぶつけてみよう。
[PR]
by nanacorico0706 | 2011-08-15 12:50 | 読書

Building Social Business ムハマド・ユヌス


a0158818_1341552.jpgグラミンバンクのユヌスさんの最新本。‘New Kind of Capitalism…’という副題にひかれて読んでみた。最近新しいタイプの資本主義、という売り文句にめっきり弱い。それが自分自身最も気になっているテーマだからだろう。

以下面白かったことをメモ。

配当をしない営利事業=Social Business
ソーシャルビジネスというと一般名詞的に使われがちな最近だけど、ユヌスさんはこの本でソーシャルビジネスを’non-loss, non-dividend company’と定義している。利益は出すけどその利益は基本的に株主や投資家には分配しないというもの。余剰利益はビジネス拡大の為の再投資、もしくは万が一の為の蓄えとして残しておく。このアイディア、好き。

ソーシャルビジネス、というとダブルボトムラインと呼ばれるように経済的利益と社会的利益の両者を追求する、というのが一般的。対してユヌスさんの言ってるソーシャルビジネスは少し違う。ダブルボトムラインでいう経済的利益、とは事業への投資家にもリターンを返していく、という暗黙の了解がある。一つ前のブログで書いたように投資家の期待するリターンを出せるビジネスだということが更なる投資を呼んでビジネスを拡大し、ひいてはソーシャルインパクトも拡大する、というのがダブルボトムラインのロジックだ。これに対してユヌスさんが推奨するソーシャルビジネスでは利益は誰かに帰属する所有物ではなく、会社の中に還流し将来のビジネスの為に使われる。

彼がダブルボトムラインを支持しない理由は2つ。

1.貧困層を対象に利益を追求するのは倫理的に受け入れられない
ここ、言い切るところが気持ちがいいな。私がパキスタンで抱えていた煮え切らなさも結局これなんだと思う。工事現場で汗水たらして働いてるこのお父さんが身を切る想いでおカネを払って買う住宅の利益がなーんでマンハッタンの投資マネージャーのとこに戻らなきゃいけないわけ?!みたいな。感情的な議論は一蹴されるので論理武装をしなければいけないわけだが、倫理的に受け入れがたい、というのは素直に共感。

2.長期的に、もしくは難しい局面に陥った時、経済的利益が社会的利益に優先する結果に陥りやすい。「時間が経つにつれて、社会的なゴールは徐々に重要性を失い、一方で利益を上げることの必要性がより深く会社の風土にしみこんでいくものだ。」と。

ソーシャルビジネスを支える法的スキーム
上記のような特徴を維持するのに最適な法的仕組は何か?現状では営利目的の会社形態が取られることが多いがこれはあまり適さない。会社はそもそも株主の利益を最大化するのが法的な義務。社会的利益を優先させたり、市場よりも高い賃金を払ったりすると理論上は株主から訴えられてもおかしくない。将来的にはソーシャルビジネスを既定・規制する独立の法律を作るべきだと主張。同意。ミッションドリフトと呼ばれる当初の会社としての社会的使命がそれて行くことを防ぐためにはその為の構造的な仕組が必要だと思う。

その他いくつか最近の先進的な法的スキームが紹介されていたが面白かったのが英国発のCommunity Interest Company(CIC)という新たな法人形態。公益に資することが認定された会社のみ取ることの出来る新しい形態で、最大の特徴は所有する資産の分配に制限がかかるアセットロックと呼ばれる規制だろう。CICの所有する資産は余剰利益も含め直接コミュニティに還元するか、もしくは再投資や担保として事業の拡大の為に使われなければならない。が、配当も可能。ただし株式辺りの配当率はイギリスの中央銀行の貸出レート+5%まで、また会社の利益全体の35%までしか配当出来ない。

こういう規制のある会社、もっともっと主流になっていったらいいのに、と思う。ソーシャルビジネスの議論ってソーシャルリターンをどう見るか、ってところに焦点があたりがちだけど経済的リターンはノータッチ、ということが多い。そもそも経済的リターンは何のためにあるのか?誰が利益を受け取る権利を持っているか?というところの議論がちゃんとされていないような。株主の期待にこたえる為の利益と会社の存続の為の利益ではかなり意味合いが変わってくる。私はダブルボトムラインの2つの柱は基本的にトレードオフの関係にあると思っているので経済的リターンにキャップを設けるのはソーシャルビジネスにとってすごく大事なことだと思う。

もうひとつ面白かったのは彼が以前から主張しているソーシャルビジネスの為の株式上場市場の話。ユヌスさんのいうソーシャルビジネスは配当を出せないわけだから、この市場への投資家が得る経済的リターンはゼロ。元本は回収出来たとしてもそれ以上の利益を得ることはなし。万が一株式の売買で差益が出た場合も同じ市場内で再投資しなきゃいけない。面白い。そんな株式市場誰も投資しないでしょ、というもっともらしい反応もありそうだけど、私はそうでもないと思う。究極的な質問は人間はそんなに利益志向なのか?ということ。次へ。

多面的な価値を持った人間
全体的に具体的なビジネスの話に終始しているものの、こういったことを主張している根っこにあるのはユヌスさんが信じる人間の価値観の多面性のようだ。Multidimensional peopleという言葉を使ってone-dimensional human beingsと対置している。自己の利益の極大化が生来の人間の性質ではない。’Success will be measured primarily by the contribution one makes to the well-being of the world’. 合理的に自己利益を追求する人間像を前提とするとフリーマーケットに任せるか政府による規制と再分配に望みをかけるか、という二者択一になる。が、ユヌスさん曰くもし多面的な価値を内包した人々で構成される社会があれば自発的な再分配(self-induced redistribution)が起こるという。お金持ちが政府から高い税金をかけられて再分配を強要されるのではなく、自発的に配当の無い会社に投資したり、給料が減ってもソーシャルビジネスに従事するようになる、ということだろう。利益の全く出ない上場株式市場、なんてちょっと非現実的にも思えるアイディアの奥には人間の本性って何だろう、という問いがある。

去年、大好きだった経済地理学の授業はアダムスミスの『国富論』でスタートし歴史を追って現代の経済学の論説まで辿りついたあと最後の授業は再びアダムスミス、今度は『道徳感情論』。ここでアダムスミスは社会正義について多く語っていて、最終的にそれを担保するものは国家という強制力を持ったシステムだけではなく、人間の倫理観だと言っていたと思う。経済における道徳や倫理の役割とは何か。今だから大事な問いなのだと思う。社会主義の可能性が消えてから20年、貧困や環境問題や金融危機や今の資本主義システムも危うい。倫理観や道徳や人間の善意や家族や社会に対する愛情、そういった経済の文脈から排除されてきた要素を見つめなおす地点に来ているのではないかと思う。
[PR]
by nanacorico0706 | 2011-01-15 01:39 | 読書

原丈人『新しい資本主義』


原丈人さんの『新しい資本主義』、読了。a0158818_072862.jpgソーシャルインベストメントについてずっと考えている今日この頃。社会的投資、というとなんだかふわっと社会貢献的なイメージあるけど、結局本質は(少なくとも今のところ)「金融業」であると思う。「金融」の果たす役割って何だろうということのヒントになることも多く、さらっと読んだわりにインスピレーションが多かったので備忘録。

「金融は本来脇役」
当り前の事実だけどそう捉えられていなかったのがここ何年かの風潮だったと思う。金融は「あくまで縁の下の力持ちであって主役や起業家であり企業人」「産業の中心にはなりえない金融業が我が物顔でこれほどまでバブルによって拡大してしまった」。ソーシャルインベストメントは「業」としてわがもの顔バブルにならないか?
2007年のヘッジファンド上位10人の個人所得を合計するとトヨタの2007年度純利益を上回る額だった、という話は衝撃的。気持ち悪い。

「株主目線の経営指標」
IRRやROEなど、短期的な株主利益を測るのに便利な指標がビジネス界ではスタンダード。社会人になった時には既に常識として叩き込まれたので疑問に思うこと無く受け入れていた。指標ってどこか科学的なものという先入観があるものでどういう歴史的・社会的背景があってそういう指標が主流になったのか、というところを意識することって少ない。でも指標もシンボルであり、意味であり、価値判断の固まり。IRRはソーシャルインベストメントでも普通に使われているけど、どうなんだろうか。投資資金の回収は早ければ早いほどいい、という固定観念を刷り込んでないだろうか?

「内部留保を大事に」
内部留保の配当による吐き出しのプレッシャーが長期視点の研究開発を阻害してきた、という。この問題、BOP向け消費者ビジネスの文脈で考えると価格に大きく影響すると思っている。BOP向け商品の難関の一つは「低価格化」だけど、マーケットレベルの株主利益・配当を念頭に置いて事業モデルを作ると必然的にマージンが増えて価格が上がる。株主なんていない方がいいんじゃないか、とさえ思う。株主がいなければ何かあったときの保険としてうすーく内部留保を確保するだけで良くて、その分ギリギリまで価格を下げられる。アキュメンファンドのような社会的投資家の回収目標期間は5~7年。これって本当に長期か?そもそも投資先がきちんとサステナブルになっているのだったら回収しないで半永久的にそのまま回せばいいのだし、投資先の会社内で内部留保をどんどん再投資すれば事業のスケールは大きくなっていく。なぜ回収する必要があるんだろう?

「新しい株式会社」
原さんが手掛けているBracNetでは利益の40%を教育・医療といった公益事業に支出できるようになっているという。日本でも稼いだお金の全部、または半分くらいまでは公益のために使えるような株式会社を作れないか、と考えているそう。
利益は本来目的ではなくてただの結果だと思う。企業が行う経済活動の目的は例えば食糧の提供とか、インフラの提供とか、幸せの提供とか、そういうところにあるわけで、それを実行した結果残るものが利益であって、どれだけ残るかはそんなに大事じゃないはず。ドラッカーの言葉を借りれば利益は手段。将来に亘って幸せの提供という会社の使命を果たす為に、最低限倒産しちゃいけない、その為の手段。
「手段」であるはずの利益を「目的」とした投資家が参入すると本来の事業目的と別のベクトルが働く。厄介なのは彼らが「Owner」であることだと思う。株主というのは法的に会社の所有者なのだ。そうなると力関係は構造的には所有者が上。利益の配分にもこの構造が大きく影響する。ソーシャルインベストメントの現状のアプローチは「投資目的」を「経済的利益」だけではなく、「公益」も含めて考える人たちを増やしていこうというもの。ただし「投資家」「Owner」というステータスに変わりはなく、構造上の所有形態はそのまま。現状では「通常の投資家みたいな短期的利益は要求しませんよ」という個々人の倫理的コミットメントだけで法律上の規制もない。どの程度が高い利益でどの程度が短期的なのかは非常に曖昧。人々の投資に対する価値観が変わること、倫理観をマーケットに組み込むことは大事だと思うけど、その価値観を反映した形でマーケットの構造やルール自体を変えることも平行して必要と思う。


「全ての企業は中小企業になっていく」
想像性や柔軟性を保つためには企業のサイズは大き過ぎちゃダメだ、というお話。シュンペーターの主張とだぶる気がして興味深かった。ちょっと視点は違うが、利益追求型投資家の話に戻って、中小企業化をするというのは会社の自立性を保つことにもなると思う。もっというと、投資家、いらなくなるのではないかと。例えば税後利益の全部をコミュニティの共有ファンドに寄付して、プールしたお金から市場よりだいぶ安い金利で借り入れが出来るようにしたら投資家なんて呼び込まなくても継続的に事業を回していけるのではないか。立ち上げ資金は公的援助が必要かもしれないけど、その後は参加企業の合意で採算が取れるように利率を管理していけば、サステナブルになるのではないかと思う。それだと事業の規模拡大に限界がある、大企業の規模の経済に対抗できない、という反駁もありそうだが、原さん理論的には大企業ほど柔軟性を失って滅びて行く、全ての企業は中小企業化すべし、ということ。

ざっくりしたアイディアを述べている本ではあるけれど、興味のあるトピックが多く色々と刺激を受けた。公益資本主義、色んなところで議論されているみたいなので追ってみたい。
[PR]
by nanacorico0706 | 2010-11-23 00:10 | 読書

Small Change


『Small Change ~ Why business won't save the world』を読む。

a0158818_8154236.jpgNon-Profitでもビジネス分野でも話題になった『Philanthrocapitalism』(社会貢献する資本主義)を真っ向から批判する書。社会貢献分野でのビジネス手法への傾倒、IT業界を中心とした若き億万長者たちの社会貢献分野への進出が一大ブームになっている中、長く市民社会運動に関わってきた専門家の視点から警鐘を鳴らすもの。

伝統的な市民社会やNGOの活動を美化し過ぎている印象もあるが、マーケットを通じた社会問題の解決の問題点や限界の分析はとても鋭い。いくつか印象に残った点をメモ。

1.異なる解ではなく、異なる問いかけ
マーケットと市民社会は同じ問題に異なる解を提供しているのではなく、そもそも別の問いかけをしている。言いかえれば解決しようとしている問題が違う、という主張。例えば貧困の原因は何か?と考えた時に、マーケットベースのアプローチではこれをリソースの不足、と捉える。一方で著者によれば貧困の原因は「不足」ではなく「リソースの配分の不平等」であり、この不平等は人種、階級、ジェンダー等の社会におけるパワーバランスに起因する。そうなると、前者は貧困という問題に対して「如何にリソースを動員して不足を埋めるか?」と問いかけるのに対して、市民社会は「如何に不平等を生んでいる権力構造に変化を起こすか?」と問いかける。

世界の富の総量はどんどん増えているのに貧しい人の取り分は変わらない、というのはココに原因がある。食糧が足りないのではない。食糧を平等に分配するシステムとそれを作る政治力が足りない。ケニアの少数民族出身の友人キャロラインの話を思い出す。政治力が無い為に政府に働きかけることができず、両隣の村には届いている電気が彼女の村を素通りしている。Philanthrocapitalist的には問題は電気の「不足」。政府の提供する電気よりは高いとはいえ、貧困層が手の届く価格、今使っている有害なkeroseneオイルよりは健康面でも優れているソーラーランタンを売り込む、というのが一つのソリューションになるだろう。これは本当にベストな解なのか?

市民運動の文脈で言えば問題は電気の「不足」ではなく、少数民族に対する社会的・政治的差別。実際にキャロラインの村は他のマサイ族と協力して原住民保護運動を起こし、数年前にケニアの憲法に民族的マイノリティの権利を尊重する、という改定が加えられたとのこと。電気はまだだけど、この憲法改定を機に彼女の村にも水道が引かれることが決定したとか。政府の行動を根本から変えることで、電気、とか水道、とか一つ一つの問題に対処法的に当たるのではなく、問題の根っこにアプローチしようというのが市民運動の理念、と著者の主張。

BOPビジネスは本当に貧しい人には届かない。だから水や電気などの公共サービスでは政府や国際機関のコスト面でのサポートが必要、と思っていたけど、本当にそれがベスト?問いかけるべきは貧困層が払える値段かどうか、ではない。なぜ貧困層にサービスが届いていないのか、だ。ソリューションが間違っているのではなく、問いかけが間違っている。

"Philanthrocapitalismはマラリアを撃退するワクチンを作れるかもしれないが、このワクチンは恐れ、貧困、格差、腐敗、ガバナンスの欠如、疎外を解決することは出来ない"


2.Individual VS Collective
ビジネス手法を活かした貧困解決策は個人の力に着目したものが多く、集団的・協働的な行動を促さない。マイクロファイナンスをIndividualization of povertyと批判した論文があったけど、貧しい人一人一人が貧困から抜け出す力を持っている、とするのはどうなのよ?という主張。先に書いたように貧困は社会的格差や不公平に起因するのだから、より包括的、集団的な社会変革が必要、と。

"individual approach fails to recognize the power of collective action which can change the horizons of whole communities by implementing new laws and regulations, changing values and relationships, and cementing political coalitions and alliances from which everyone can benefit"

3. Accountability
開発学の文脈でも繰り返し登場するトピック、Accountability。非常に難しく曖昧で授業中の議論もいつも拡散、霧消する。何百億円という私財を途上国の開発プログラムに注ぎ込む超お金持ちたち、PhilanthrocapitalistsのAccountability(説明責任?)の欠如を指摘。確かにBill Gatesがアフリカの疫病対策の資金配分に大きな発言権を持っているってどうなんだ?という問いかけは的を射ている。

"Is it desirable that a foundation governed by a board of three family members is able to play such an influenced role, or to decide that health outranks global warming as the number one prioriy?"

とはいえ、市民社会や政府はAccountabilityがあるのか?というのも同時に疑問。あらゆるアクターに求められている課題だと思う。
[PR]
by nanacorico0706 | 2010-04-11 08:22 | 読書

The Blue Sweater - Jacquelin Novogratz


a0158818_224433.jpg遅ればせながら話題になったAcumen Fund創設者の自伝を読む。雑感。

*マーケットが貧困を削減する?
一貫して市場の機能を強調。一つはパブリックサービスを貧困層に効果的・効率的・持続的に届く仕組みを作るのはチャリティではなくマーケットだ、という主張。もうひとつはアカウンタビリティの問題。従来型の援助では市場が持つようなフィードバック機能が働かず、結果として現地のニーズをくみ取れず失敗に終わるケースが多かった。印象的な例はルワンダでアメリカのNGOが女性グループの自立支援プログラムの資金援助をしていたケース。月に650ドルの援助資金を受けているにも関わらず、女性たちの従事しているビジネスの非効率性から20人のメンバーが一人1日当たり50セントしか受け取れない状況。単純に650ドルを20人に配れば収入は倍以上になる。ビジネスとして成立するようにならないと、外部からの援助から永遠に自立出来ない。for-profitの投資ではありえないことだが、チャリティの世界ではフィードバック機能が働かずこういった無駄な援助が放置されてしまう。

効率的なリソースの配分と持続性の担保と言う意味ではマーケットは大事。同時に市場の機能が内包する競争とその結果起こる不公平性を補完する軸が必要。伝統的にはそこが政府の出番だが、ここ数十年の傾向はここがNGOの出番。Acumen FundのPatient Capitalという投資とチャリティの中間ぐらいに位置する資金援助の概念もこういった文脈にフィットする。

*現地の起業家を支援
パッケージ化された開発プロジェクトを持ち込み現地のコミュニティに押し付けるのではなく、既に小さな規模で成功しているビジネスの種=起業家をサポートする。短期のプロジェクト実施ではなく、長期の組織支援。ここは非常に納得。現地の人々が考え、作り、長い時間をかけて育てていかないと社会の変化は起こらない。

*特権について
ジャクリーン個人の内的葛藤として繰り返し語られるのがアメリカ人として生まれ育った特権について。開発の世界に興味を持ってからずっと疼いているテーマでもあり改めて考えさせられる。恵まれた環境で生きてきた自分に一体何が出来るのか?「援助」なんてする権利や正当性があるのか?そもそも本当の意味でに貧しい人たちの声を理解することなんて出来るのか?自分の個人としての生活、人生とどう折り合いをつけるのか?そのギャップをどう咀嚼し、正当化するのか?80年代のアフリカという最貧困国で開発援助に充実する先進国エリート達の優雅な駐在生活。黒人の若い活動家から、「あなたは白人で恵まれた人生を送ってきて、安定した組織からの後ろ盾もあるのだから私たちのリーダーは務まらない」と指摘された時の困惑。
人間はみんな一緒、とも、多様性が素晴らしい、ともそう簡単に片づけられる問題ではない。

一方でジャクリーンのメッセージは力強い。「他人は違う、彼らは貧困の中でも幸せに生きている、と装うのは簡単だ。だけど私たちは心から他に耳を傾ける勇気を持たなければならない。そして他に対する偏見を再認識するのではないやり方で新しい人々と接し続けなければならない。」

印象に残ったフレーズをいくつか・・・
"more than any academic subject, judgement, empathy, focus, patience, and courage shoud be studied and cultivated. As our world gets more complex, smart and skilled generalists who know how to listen to many perspectives across multiple disciplines will become more critical than ever"

"the psycology of poverty is so complex. It is soo often the people who know the greatest suffering-the poor and most vulnerable-who are the most rsilient. That same resilience, however, can manifest itself in passivity, fatalism, and a resignation to the difficulties of life that allows injustice and inequality to strenghthen, grow, and solidify into a system where people forget to question"

"I am a part of all that I have met, and they-all one of them, good or bad- are a part of me."

"to be truly effective especially internationally, you must root yourself more strongly in your home's own soil. Only by knowing ourselves can we truly understand others-and knowing from where you come is an important part of knowing who you are"

"you should focus on being more interested than interesting"
[PR]
by nanacorico0706 | 2010-04-04 03:39 | 読書

After Capitalism


前期は課題をこなすのでいっぱいいっぱいで自分の興味のある本なんて全く読めなかったので今学期は1カ月に1冊は授業に関係の無い本を読む!と決意。いつまで続けられるかしら・・・。

修士課程最初の必修科目は2年目の先輩から「超キツイ」とさんざん脅された開発理論。噂に劣らずものすごいリーディングとレポートの量、しかも難解というか抽象的な理論も多く眩暈のするような4カ月だった。その開発理論の授業でさんざん出てきたポストモダン/ポスト開発論。従来の開発政策は先進諸国がたどってきた近代化の道を途上国に押し付けてるものだ、として批判する立場で、基本的にアンチグローバリズム、アンチネオリベラル、アンチ資本主義。おそらく90年代あたりからこういったメインストリームに対する批判はかなり影響力を持っているのだろうけど、いまいちすっきりしないのが資本主義がダメならどうすればいいの?というところに明確な答えが無い点・・・。批判はごもっとも、What’s next?という苛立ち的反応がクラスの中でもかなり多かった。

で、そもそも資本主義の何がダメなんだ?てゆーか資本主義ってなんだ?というとこが理解できてなかった為、教授に勧めてもらったのがこの本、「After Capitalism」。a0158818_12561080.jpg「資本主義後(?)」ということでマルクス主義でいう社会主義のステージを暗に示しているわけだが、筆者はEconomic Democracyという新しい社会経済システムを提言する。

その前にまずは資本主義の基本的な性質をかなりシンプルではあるけど分かりやすく解説してくれている。
1.生産手段が資本家によって私有されていること
2.競争のある市場でモノが取引されていること
3.殆どの人が賃金労働者であること

確かに!とうなずいたのは市場経済が資本主義の同義語のように語られることがあるがこれは間違い、という点。実際には社会主義経済にも市場は存在する。マーケットの存在は資本主義の弊害そのものではなく、問題は市場がどの程度政府のコントロールを受けているかであるという主張。

これに対して筆者の提案するEconomic Democracyの要素は三つ。

1.会社の労働者によるセルフマネジメント
株式会社ではなくいわゆるCooperative・組合のような新しい会社組織を提案。働く人全員が等しく1票を持つWorkplace Democracyなるものを想定していて、重要な意思決定は株主がする株式会社とは大きく異なる。資本主義では生産手段は資本家の私有となるが、Economic Democracyでは労働者全員の共有資産。株式会社では労働力はコストだが、この組織では株主に利益を還元しなくて良いので最終利益を山分け(もしくは企業の決めた割合で分配)、ということになる。

2.競争のある市場でモノが取引されていること
Economic Democracyでも資本主義同様市場は存在。共産主義体制では政府の支配下に置かれる市場を開放し、需要と供給に従った価格決定と企業活動を肯定。

3.投資の社会的コントロール
資本主義体制では個人投資家や企業が行う投資活動は全て政府と地域社会が行う(!!)。企業の所有する資産(土地、建物、設備など)に税金を課し、この税金を投資ファンドに集める。集まった資金は住民の数に従って均等に地域に割り振られ、地域の公的金融機関を通して新しいビジネスに投資される。金融機関といっても金利は課せられず、グラントとして企業に供与される。ただし与えられた資金に上記の税金が課せられ、投資ファンドに戻っていく為この税金がある意味金利のような役割を果たすこととなる。この仕組みが資本主義システムでは豊かな都会や資本の豊富な企業に集中する投資の、より公平な分配を可能にする。因みにこの資産への課税の代わりに、企業は法人税は払わない。最終利益は企業の構成員によって分配される為、個人個人に所得税がかかって終わり。

いやー、すごい。かなりぶっ飛んでいるように思えるが、マルクス主義の思想が分かって非常に読み応えがあった。これぐらい思いきった代替案だと現実離れしているようでも学ぶことや発見が多かった。とはいえ政府の役割の文脈では何度も戦後の日本の経済政策の有効性が持ち出されていたし、程度の差はあれど、いかに政府が公平性に配慮した資本主義をデザインしていくか、の重要性を説いているのだろう。少なくとも、ネオリベラルなマーケット至上主義、市場万能主義では資本主義は公益を追求できないということは確かなのではないか。

それから労働者によるセルフマネジメントを実践している会社として、スペインのバスク地方にあるMondragonという大企業が紹介されている。1943年に地元の牧師さんが立ち上げた職業訓練所が元となって小さなCooperativeを組成、小規模の組合のグループ企業としてどんどん拡大して重工業から消費財、NASAとタッグを組む研究所まで擁する一大複合企業に成長している。2000年時点で構成員は53,000人、売上はUS66億ドル、総資産は130億ドル。ひゃー。この規模で一人一票、利益分配、解雇ナシ、という経営を続けているのだからすごい。

BostonにあるFair Tradeの会社は営利企業だが同じく組合の形を取っている。現実にきちんと成り立つということなのだ。意思決定に参加できることからより当事者意識を持ってビジネスに取り組むようになること、また、組織の利益が自分の収入と直結するので、収益性と効率性を追求するインセンティブも確保される。一方で株式会社と違ってトータルの利益ではなく、一人当たりの利益が重視されるのでどんどん組織を大きくしていこう、というモチベーションは生まれない。成長、さもなければ死、みたいなひたすら競争に追われ際限なく肥大化していく必然性がなくなる。結果、大きい企業が小さい企業の買収を繰り返して巨大化し市場を独占、といったことはなく、市場は競争状態が保たれる。

テクニカルな提言ではなくもはや思想なので、そもそも平等を追求する必要なんてない、もしくはそんなの無理、という考えの持ち主の方には響かないアイディアなのだろうけど、それでもやっぱり普通に考えて異常、と思うのは現在の資本主義が生み出している経済格差。

非常に面白かったのが、アメリカの世帯当たりの所得を人間の身長に置き換え、所得の最も低い人から最も高い人の順に1時間のパレードを行ったらどうなるか?という試み。アメリカの平均所得US55,000ドルを平均身長の180センチとすると、パレードは3センチに満たない人の行進からスタートし、貧困ラインを超える身長の人が出てくるまでに12分、なんと2千万人が通り過ぎる。小さな人の行進が延々とつづき38分経ったところでようやく平均身長の人々が登場、と思ったら5分後には身長は平均の2.5倍に成長する。ここから一気に身長の伸びと行進のスピードが加速。所得のトップ1パーセントの人が通り過ぎる36秒の間に身長は倍になる。のこり30秒のところでアメリカ大統領登場。身長13メーター。その後Forbes800に名を連ねるCEOが登場。10階建てのビルから世界一高いビルぐらいの身長。もはや顔なんて見えない。ディズニー社の社長が身長1.6キロメートル、ジャック・ウェルチが3キロメートル、そしてアンカーはもちろん永遠のベビーフェイス、ビル・ゲイツ。144キロメートル。エベレストの16倍、頭は雲の上。足でかすぎます。
a0158818_12441669.jpg


・・・うーん。グロテスク。やっぱり何かがおかしい、と思わざるを得ない。完璧な平等なんてものはもちろん無いし、そんなものは望むものでもないけど、3センチの人間と144キロメートルの人間が共存する社会ってどうしても気持ちが悪い。健康的な社会であるはずがない。これを世界規模で行進したとしたらもはやゲイツ氏は大気圏に突入するのではなかろうか・・・。健康的な世界であるはずがない。この気味の悪いパレードを作り出しているのはなんだ?というところに戻る。既存の社会経済システムに何か構造的な問題があるんじゃないか?この問いに対して筆者が提言しているのが富の分配に焦点をあてた資本主義の抜本的な改造。After Capitalism。非常に刺激を受けました!
[PR]
by nanacorico0706 | 2010-01-29 12:58 | 読書


2年間の米国留学生活をゆるゆると綴ります・・・
カテゴリ
全体
読書
勉強
Net Impact
america life
パキスタン
つれづれ
おしごと
未分類
以前の記事
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
最新の記事
政府とおしごと
at 2014-08-09 10:40
広告の終焉から始まるもの
at 2013-10-06 15:56
massive scale ..
at 2013-09-09 00:49
寄付と遊びの関係
at 2013-09-01 23:37
2013
at 2013-01-03 16:22
SOCAPデビュー
at 2012-10-25 08:58
地図ではなくてコンパスを持て
at 2012-09-02 14:18
ママCEO
at 2012-07-29 10:56
『Start with WHY』
at 2012-06-28 19:04
未来のOwnershipのカタチ
at 2012-05-06 15:33
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧