旅の途中



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Anthony Giddens 『The consequences of modernity』読了。


a0158818_1664190.jpg邦題は「近代とはいかなる時代か?」

タイトル通り、近代ってどういう特徴が有る時代なの?それまでと一体何が違うの?ということを論じた本。ギデンズは基本的に今の時代はポストモダンで近代は既に終わった、という立場はとっていない。現在というのは近代の究極的な姿、という考え方。

ギデンズが挙げている近代という時代を構成する決定的ないくつかの要素のうち、最も興味深かったのが専門家の存在をベースにした抽象的信頼システム。人々の生活全般が医療、行政、法律、金融など細分化された専門家の提供する知識に依存して成り立っている世界。近代以前は時間と空間を共有した人対人の関係性で成り立っていた毎日が顔の見えない非人間的なシステムによって構成されていく。

専門性に従って細分化したシステムは普通の人には全くコントロール出来ないどころかその仕組を理解することさえ出来ないレベルに複雑化・巨大化していく。この抽象的システムの一例として繰り返しギデンズが言及するのが「核の脅威」だ。核兵器の使用や原子力発電所での事故を引き合いにだし、一般市民が全くコントロールできない脅威と共存することの不可避性が近代の一つの特徴だと指摘している。1990年出版の本なのだけど原発の脅威と向き合わざるを得なくなった今の私たちの状況への示唆が散りばめられていてドキっとしたのでした。

Low probability high-consequence risks will not disappear in the modern world, although in an optimal scenario they could be minimized.

蓋然性は低いけれど起こった場合のインパクトが甚大なリスク、はまさに1000年に一度の脅威に直面した原発事故。巨大で匿名性の高い抽象的システムが支配する世界ではこのリスクの責任の所在も、対処の方法もきわめて不明確。人間社会が創り出したのにもかかわらず、生身の人間の手に負えないほどシステムが暴走する構造は金融危機とも重なる。

こういった社会を前にして私たち市民が、一個人が取る態度とはどういったものか?ギデンズは諦めや悲観主義がまん延すると考える。自分のコントロールの及ばないところで社会は回っているのだ、という宿命主義的態度。前近代の人々がコントロールの及ばない自然の摂理・脅威に対峙して感じた「宿命」という説明が、科学によって自然の脅威を克服してきた近代で別の形を取って再度現前化する。

Fate, a feeling that things will take their own course anyway, thus reappears at the core of a world which is supposedly taking rational control of its own affairs. The sense of dread which is the antithesis of basic trust is likely to infuse unconscious sentiments about the uncertainties faced by humanity as a whole.

近代は科学の進歩によって知の確実性が増したというのは正しくない。近代ほど物事が曖昧な時代はないのだ。どの程度の人がスイッチを入れたらどのように電気が供給されるのか、そもそも電気とは何か?ということを説明出来るだろうか? 

というギデンズの問いかけは正しい。原発の事故発生から流れ出てくる情報の不確かさ、不十分さ、開示のプロセスの胡散臭さ。さらに言えばどんなに正しく情報が提供されたとしても原発の仕組やそのリスクについて私の脳みそでは消化しきれない・・・という無力感。エネルギーという自分の生活にこんなにも密着した事象にも拘わらずまったく自分の理解の及ばないブラックボックスでことが運んでいること。目に見えない放射能がこうしている間に人の体を蝕んでいたらどうしよう、という漠然とした不安感。

横たわるのは現代社会における「信頼」という大きなテーマだ。ギデンズによれば抽象的システムに支えられた現代社会の信頼性はfaceless commitmentによって成り立っている。顔の見えない、匿名性の高い責任。東京電力、とか政府、とか原子力保安院、とか。

政府が言ってるから大丈夫、上場企業だから安全、格付けA+だからOK、みのもんたさんの番組で言ってた(?)、みたいな抽象的システムに基づく信頼感。

過去10年でこのfaceless commitmentに基づく専門家システムに対する信頼が大きくぐらついてきた。偽装牛肉だの不正会計だの企業の不祥事はもうこれでもかってぐらい露見したし、金融危機はまさに複雑化して誰が悪いのかはっきりしないグローバルな構造を世界に知らしめた。肥大化した官僚的な政府は世界中で機能不全が指摘されている。

現代を象徴する輝かしい特質であった高度に専門化された効率的な巨大システムは既に信用失墜して人々は新しいシステムを求めている。すでに信頼性の定義は専門家の評価から市民同士の人気投票的システムにすり替わりつつある。口コミによる一般人の評価、ソーシャルメディアを通したある程度閉じたコミュニティでの情報交換の定着は、信用の定義の無意識的な変質を意味しているかもしれない。

権威に基づく信頼ではなく一般人の一般人による一般人の為の信頼システム。果たしてこのシフトは良いことなのかな?

より信頼が担保される方向に向かっているか?という問いは多分有効ではないのだろうと思う。突き詰めたら、結局何が本当に信頼に値するか、なんて分かんないよねー、というところに行ってしまう。

問題は信頼度の高さではなく、信頼する人間の態度の変化なのかも。新しく起こっているソーシャルネットワーク的信頼システムが面白いのは一般の人たちの能動的な参加を促す可能性があるからだ。政府が言ってるから信頼していいんでしょ、責任取ってくれるんでしょ、という受け身の態度ではなく、信頼するかしないかは私に任されているんだ、っていう自立した緊張感。もし何かあったときは自分でリスクを負わなきゃ、っていう覚悟。信頼システムは外部にある大きくて揺るがないものではなく、自分も一人の参加者である流動的なシステムなんだという認識は前向きな社会参加を促すかもしれない。ギデンズは「市民の無関心」は匿名性の高い近代信頼システムの基本的特徴だ、と言っていた。この無関心を破る鍵がここにあるのではないか。

ギデンズも最終的には個人主義的などうにでもなれ、的態度よりもアクティビズムが勝利する、と言っている。近代システムでは誰ひとりとして「外部者」にはなりえないからだ。
For, to repeat, in respect of the balance of security and danger which modernity introduces into our lives, there are no longer ‘others’ – no one can be completely outside. Conditions of modernity in many circumstances provoke activism rather than privatism, because of modernity’s inherent reflexivity and because there are many opportunities for collective organization within the polyarchic systems of modern nation-states.

一般の人たちの声を取り入れたNPO・NGOを評価する為の新しいシステムを作れないか?というようなことを最近仕事で議論していたこともあってがっつり刺さるギデンズの議論なのでした。

このテーマ、引続き考えよ。
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by nanacorico0706 | 2011-10-30 16:15 | 読書

社会学を勉強しています


勉強、と言ってもそんな大袈裟なものでもなく、本を読んでいるだけなのだけど、あえて「これは勉強だ」、と決めた。暇つぶしに本を読む、という姿勢ではなく学習モードで本を読んでちゃんと文章に残す、と決めたのだ。

留学中の2年間は勉強ばっかり。帰国して社会の荒波に戻るにあたって、あの2年間の知的興奮状態をどうにか実社会の忙しい毎日でも維持したかった。机上で空論をこねくり回しながらも、きちんと眼前の社会でもがく、ということをやっていきたい。議事録とか稟議とか根回しとかに愛情こめつつ、理想とは何ぞや、ということを考えるスペースを脳内に確保したい。というのが目標。

「民が民を支える社会を作る」、とか「ビジネスを通した社会課題の解決」、という仕事上の旗印はあれど、現実には社会を構成する一つの組織体の中の一人の非力な人間として小さな小さな積み木の一つを動かすことにもひーひー言ってるのが毎日なわけで。小さなことを積み上げるのがもちろん大事だけど、その先にある大きな絵がだんだんぼやけていくのはいかん。大きな絵にも毎日向き合って、修正して、手を加え、ということを日常生活に組み込みたいと思った。

で、「勉強」を続けることを決めたのだ。なるべく毎日の業務と関係ないことがいい。なるべくマニアック且つ高邁ですぐには役に立たなそうなものがいい。実用的というよりは知的興奮を感じられるものがいい。と、考えた結果、大学院の授業で最も鳥肌立ち率が高かった社会学系のテーマに絞ることに。

竹内洋さんという学者さんが言っていた。社会学の面白さは「公式的見解や表明の背後にある構造が見通され『ものごとは見かけ通りではない』として現実感が一変する知的興奮にある」と。そこからふーんなるほどね、で終わるのでなく、懐疑的になったり、皮肉っぽくなってしまうのではなく、もっと素敵な未来の可能性を探るヒントを得たい。社会の現実をクールに見つつもちゃんとその社会のなかでもがく、あがく、暴れる。それが大事だと思うのです。

ある人が社会学的理解は、人間の営みを「社会的カーニバルと見る喜劇の感覚」だと言った。そこにあるのは悲嘆や諦めではない。人生は一幕の劇に過ぎない、というぐらいの達観。よくよく考えてみると毎日くだらないことにあたふたしている私ってば笑っちゃうわ、というヘラヘラした感じ。それでも一生懸命、社会をより良くするために身を尽くそう、という覚悟。と、同時にとりあえず好きな人と好きなご飯食べれて幸せ!みたいな瑣末なことに胸いっぱいになっちゃう自分を愛おしいと思う素直さ。

内田樹さんがどこかで、高邁な哲学的内省を継続する為には深い深い思考のプロセスが閾値を超えたところで「ま、そんなこと考えてもらちがあかないから、もういいや、ラーメンでも食おう」という日常的なリアリティへの帰還が肝要だ、と力説していた。あのデカルトにもラーメン的帰還先があったらしい。曰く、「第一の格率は、私の国の法律と習慣とに服従し、神の恩寵により幼児から教え込まれた宗教をしっかりと持ち続け、他のすべてのことでは、私が共にいきてゆかねばならぬ人々のうちの最も分別ある人々が、普通に実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見に従って、自分を導く、ということであった」

あのデカルトも答えの出ない哲学的難問は目の前にぶら下げつつ、とりあえず今日のところは普通の人の普通の感覚に従おうとしていたのだ。

能力も無いのに世の中の難問をうんうん考えてどたばた走り回ってる私も十分喜劇だけれど一幕のカーニバルなら思いっきり笑える感じに仕上がれば宜しい。閾値を超える前に早々ラーメンに帰還しがちではありますが、知的修養を積んでいきたいと思います。役に立たなそうなオススメ社会学名著、教えて下さい!
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by nanacorico0706 | 2011-10-15 22:40 | 勉強


2年間の米国留学生活をゆるゆると綴ります・・・
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