旅の途中



イギリス出張


a0158818_9281657.jpgイギリス、実はけっこう縁のある国で、始めて行ったのは大学時代に付き合っていた彼を訪ねて。テートモダンなんかでモダンアートに衝撃を受けていた。2004年。
数年後に再訪したのはロンドンシティ、金融センターで不動産投資を担当していたころ。その後何度かロンドンで仕事をした。少数の金持ちグループの間でぐるぐるとおカネが回る仕組に強烈な違和感を抱いていた。2007年。

そして、先週、久しぶりのロンドン。
これまでの訪問とは違って、自分が来るべきところに来ているという実感を持ってこの土地を踏みしめた気がする。

前回渡英時とは打って変わって不況にあえぐイギリスで興りつつあるソーシャルセクターの発展を見る。日本に持ち帰ってすぐにでも動き出したいという想いも。

Unltd Impetus Venturesomeなどなど、イギリスで社会起業家支援やソーシャルセクターの発展に寄与していると言われるベンチャーフィランソロピーの雄を訪ねて回るぜいたくなツアー。日本でやるとしたらどんな風にしたらいいのだろう、テクニカルに聞きたいことは山ほどあって、たくさん質問して、空欄を埋めて帰ってこれた気がする。動き出したい。早く早く。

一方で、もっと原点というか、大事なことってそんなテクニカルなもんでもないよね、ということも当たり前だけど再認識。立ち上げ初期にUnltdから支援をされていたNPOのおっちゃんに「Unltdの何が良かった?」と聞いたら「とにかくいいヤツらなんだよー。」と。

どんな人がいるか、ホントに大事。どんなに仕組をがっちり作ってもそこを落としたらもうダメだ。コンサルや投資マネージャーの経験がある、というスペックだけで人を集めてはいかん。元ベンチャーキャピタリストというだけで理事を固めちゃいかん。企業家のコミットしている問題にちゃんと共感して寄り添って、「応援してもらっている」と感じさせるだけの人じゃなきゃダメなんだろうと思う。自分にそんな度量はあるのかしら・・・

スコットランドで参加したカンファレンスのスピーカーの一人がソーシャルセクターが抱える一番の課題は「too much knowing」だ、と語っていた。知り過ぎること、聡くなりすぎること。

知らない、分からないというスペースがイノベーションの為にはどうしても必要だ、と彼女は続けた。「自分はエクスパティーズを持っている」と言う人も、「私はなにも持ち合わせていない」と言う人もどちらにも疑問を投げかけねばならない。洗練された事業実施力や綿密な効果測定や効率的な投資スキームも大事だが、私たちは知り過ぎていないか?知っている気になってはいないか?ソーシャルビジネスがメインストリームになればなるほど、Art of not knowing、知らない、分からないという態度が持つイノベーションのポテンシャルを忘れてはいけない。

深く同感。ベンチャーフィランソロピーやるとしたら、成功モデルをスケールする為だけのツールになり下がってはいけないと思う。投資の世界で通用してきたアプローチを非営利セクターに移植するだけではダメなのだ。もっと新しい実験をどんどんやっていきたい。確立したアプローチを世に出すのではなく、作っては壊し、また作って、みたいなことをやっていきたい。その過程を共にしたい人もたくさんいる。

イギリスで充電したエネルギー、徐々に漏電しちゃいそう・・・なので早めに発散する!
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# by nanacorico0706 | 2012-04-12 09:28 | つれづれ

マルセルモース 『贈与論』


a0158818_22324720.jpg 文化人類学をかじった人にとっては古典中の古典、贈与論。大学院の授業で読んだ時は膨大なリーディングの量に発狂しかけてた時期でちゃんと読み込めなかったので日本語で再読。面白かった!!

内容については既に色んなところで紹介されているけど共同体間における贈与行為を通した一種の経済活動が市場経済よりももっと普遍的広範囲に発達していたことを「未開社会」の研究を通して明らかにするもの。自給自足→物々交換→貨幣経済みたいな単線的発展観に基づく社会学のアプローチに疑問を投げかけている。

例えばメラネシアではあるモノが部族から部族へと海を超え何十年という時を超えて受け渡され、もともとの所有者に戻ってくるkulaという一大贈与プロジェクト的なものが行われていたとか。わたしたちから見れば未開社会にしか見えないこの地域でグローバル経済顔負けの島を超え言語の違いを超えた極めて複雑に発達した交換の体系が成り立っている。

こういった贈与経済の仕組の面白さはその「複合性」「雑種性」にある、とモースは言っている。それは法的であり経済的であり神話的であり象徴的であり道徳的であり宗教的である。つまり、全てを包含している。モースの言葉でいうと「全体的」なのだ。

贈与、もしくはGiftというと現代人の感覚からすれば純粋な倫理・道徳観に基づいた慈善を思い浮かべがちだが、モースが取り上げた贈与行為はもっと複雑。有名なポトラッチは自らの部族の豊かさを示し社会的価値を上げる為に、受けた贈与を超える贈与を返すという相互行為が延々と繰り返される。お互い相手を上回るものを返すわけだから必然的に贈与は豪奢を極め、どんどんエスカレートし、最後には部族ごと滅ぶに至ることもあったとか。それは競争に勝ち権威を保つための打算ともらったら必ず返さなければならないという義務感とがないまぜになった行為。

贈与は義務感と自由意思、俗っぽい打算と高貴な道徳観の混成体なのだ。
考えてみれば私の今いる業界は贈与経済に見られたような「雑種性」に溢れていないだろうか。
たとえばCSR、なんとなくやらなきゃ、みたいな社会的要請に基づく義務感とともに本当に活動に共感して熱い想いで起こす行動もある。コーズマーケティングで利益上げたい!と言う一見打算的な担当者が、実はその社会課題を真剣に憂えていて会社として何かやらなければ、という正義感に燃えていたりするものだ。

CSRなんて結局は利益を上げるためのポーズに過ぎない、という主張は正しくもあり誤りでもある。それはあらゆる目的や意図が入り混じった企業とそのステークホルダーの相互行為・交換行為・交易行為なのかもしれない。そうあるべきなのかもしれない。

寄付文化の醸成ということを考えた時にもよく思うのは利己性と利他性が混じり合うくらいがちょうどいいのではないかということ。たとえば全国に託児所を作ってくれているNPOに寄付するよりは自分の毎日使う駅前に「皆さんの寄付が5百万円に達したらここに託児所作ります!」という寄付コーナーが設置されたほうが寄付しやすいのではないか。駅前託児所に寄付することは、倫理的に良い行為だからやろう、という想いと、いつか自分に子供ができたら託児所あると助かる、という利己的な想いとのミックスだったりする。寄付してくれたら出来たお野菜を差し上げます!みたいな特典付きクラウドファンディングのシステムも利己と利他の雑種だったりする。

今手放すものが中長期的(もしくは超長期的)には帰ってくるかもしれない、というような期待をもったことでそれはもはや寄付という倫理的行動の範疇を超えて価値の交換の可能性をはらんだ経済活動ではないか。Kulaが大きな大きな環を描いて持ち主に戻ってくるように、「自分のもの」と「他人のもの」のボーダーが曖昧になるような感覚に近い。それは時空を超えた想像力が支える感覚。

私は自分が身を置いているいわゆる「非営利セクター」なるものが近い将来ビジネスセクターを食う新しい経済活動の担い手になっていくと思っている。それはソーシャルビジネスがGDPの成長に寄与するとか投資家の期待するリターンを生むようになっていくとかいうことではなく、これまでの市場経済とは違う新たな経済活動のフィールドを作り、おカネと人材を吸いつけていくセクターにまで育っていくと思うのだ。

そのセクターはもしかしたらモースが未開社会で行きついた「全体的」な社会に近いのかもしれない。それは従来の寄付や助成の生んだ一方通行の依存関係や関係性の断絶とは違う。近代以降の投資や会社経営の商慣習が生んだ独占的で過度に合理的な関係性とも違う。一種の緊張感のある相互依存の関係性、長期的に向き合う交易的関係性。

明日からソーシャルファイナンスのメッカ、イギリスへ行く。アメリカとはまた違った長い歴史に育まれたギフトエコノミーに存分に浸かってきたい。
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# by nanacorico0706 | 2012-03-25 22:34 | 読書

働く


『会社を設立したのは、大いに貿易をやりたいというのが眼目であった。金が欲しいのではない。仕事がしたいと思ったのだ。』

大学を卒業してすぐ勤めた商社の創設者の言葉だ。明治の初め、これから日本が世界に出ていかんとする頃、20代の若者が作ったいわばベンチャー企業だったのだと思う。金が欲しいのではなく、ただ面白い仕事が、自分を賭して社会に資するような仕事がしたい、という想い。

長い時間を経て昨日、元同期がこの会社を退社した。「とにかく仕事が面白くなかったんだ。自分のやっていることがどんな価値を生み出しているのか分からない。生み出している価値と全く釣り合わない給料をもらっていて世間の人に申し訳ないと思う」と。彼女も、金が欲しいのではない、仕事がしたかったのだ。

自分のやっている仕事が社会と繋がっている実感が持てなくて鬱々としている若い社会人、多い。社会起業家に憧れる若者が増えているのは、自分の「仕事」が生み出す価値を感じられるような場を探し求めているからなのだろう。

「最近、特定の社会課題に出会う前に社会起業家というアプローチに興味を持つ人が多い。ホームレス支援の為に起業したいんです!とか言うんだけど、ホームレスになったことがあるわけでも身近にそういう人がいたわけでもなく彼がその課題に取り組む必然性が全く見えなくて・・・」と困惑する話を聞いた。

その違和感は至極ごもっとも、と思う。だけどこれが時代の必然なのかもしれないとも思う。社会起業というものが社会課題解決の手法ではなくて、働き方の一つの選択肢になってきたということだろう。

個人的には、もっともっとその選択肢を増やしたらいいんじゃないかな、と思う。一流メーカーや商社、証券会社なんかに並んで事業型NPOやコミュニティビジネスが就職先の候補になる時代がくる。NPOやソーシャルビジネスが社会課題解決の為の担い手だった時代は終わったのかも。これからは個人がイキイキと働く場を提供する社会経済活動の担い手になる。仕事と社会が繋がるような職業がメインストリームになっていく。

非営利活動やソーシャルビジネスは政府、企業という2つのセクターがカバー出来ない空白地帯を埋めるこれまでの消極的な役割を超えていく。市場の失敗や資本主義システムから落ちこぼれた人たちを救うセーフティネットの機能を凌駕していく。社会貢献したい、という奇特な精神を持った誇り高き(または独りよがりな)人たちだけのニッチ業界を脱していく。むしろ、全く新しい価値に基づいた全く新しいマーケットを創り出し、ビジネスの分野を食っていくぐらいになっていくのだと思う。雇用を生み、社会的価値はもちろん、経済的価値も生み出し、場合によっては税金も納める。なにより、働くことに喜びを見出す人がたっくさん増える。

実際、ビジネス分野から非営利セクターへの静かな人材の移動は始っている。だって、この分野の方が「金が欲しいのではない、大いに仕事がしたいのだ」という人にとってはよっぽど楽しいのだ。

働く、ということは本来利己と利他の精神が混じり合ったものだったのだと思う。会社、と言う働く為の器がその混じり合いを受けとめられなくなってきていたというだけで。これからはどんどん『雑種』が増えていく。まるっきり功利的なビジネスでもなく、完全に社会奉仕的チャリティでもなく、ほどよく混じり合った雑種。個人も事業体も。

再び、ある商社の創設者の言葉。『眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく、遠大な希望を抱かれることを望む。』素敵です。心に刻もう。
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# by nanacorico0706 | 2012-02-26 01:20 | つれづれ

2012

2012年に突入して早1カ月が経ってしまった・・・遅すぎるけどNew year’s resolutionを。

<社会をよくする投資を具体化したい>
まだバチッとスイッチ入ってるわけじゃないけど、地中ふかくでもぞもぞと動き出している種がいくつかある。
パートナーとなってくれそうな人と繋がったり、先行する人たちの事例を体感できたり、研究会経ち上げたり、色んな人の話を聞くなかでニーズを確認出来たり、想いを同じくする人とお食事会することになったり。組織を超えて動いていることがダイナミックでかつ危なっかしくて面白い。

今のワクワクがすっと実を結ぶほど甘くない、のだけれど、動き出してみないと分からないものもある。ビジョンを明確化するのが先か、とりあえずは目の前に転がっているチャンスに手を伸ばしてみるべきか。一つに集中するべきか、色々やりながら変質させていくべきか。取り返しのつかないところに行ったもん勝ちだなー。

<社会学の勉強>
これは昨年に引続き継続する。目標は12冊。
特にGift Economyについてはきちんと。とりあえず贈与論読んだ。

<コト起こし>
17年住んだ柏の家から引っ越すことになった。築30年ぐらいの古い一軒家、格安売り出し中です!さくっと売却もいいけど、どうせならShare Houseとかしてくれる人いないかなー。週末の農作業用の家とか工房とかにして借りてくれる人いないかなー。企画考案中。

Exchangeやります!とりあえず皮切りは3月に日本財団ビルで。今後は古着交換会、だけではなく、お食事とか、オーガニックなワインとか、ヨガとか、ソーシャルな映画上映とか、音楽鑑賞とか、なんか色々やりたい。

<愛すること>
去年の誕生日に掲げたこの目標。振り返ってみれば全然出来てなかった半年間。反省。もっと丁寧に日々を紡がないといけないな。ある人が愛するってことは「○○さん」と呼ばれたらちゃんと「はい」とその人の目を見て身体を向けて返事をする、そういうことだ、と言っていた。そういうものかもしれないと思う。他人に対して丁寧に気を配れることだと思う。

愛情は自然と生まれるものではなく行為にくっつくもの。毎日きちんと心を平らかにしていい笑顔をすること、守衛のおじさんに元気に挨拶をすること、心をこめてありがとうとごめんなさいを言うこと。好きな人のなかに自分を見つけようとしないでちゃんとその人を見ること。一番シンプルで難しいこと。

そして2012年は30歳になるのだ!節目として、親友と二人で第二の故郷カンボジアに帰還、人生を見つめなおす予定。

毎日楽しい、感謝、そして日々精進。
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# by nanacorico0706 | 2012-01-29 22:30 | つれづれ

新しいおカネのまわり方


今の会社を受ける時、「社会的投資ファンドを作りたいんです。リターンを生まないやつを。」と言って面接官に「なかなか刺激的だねぇ」と半ば引かれたのを記憶している。

財団がやってきたこととはかけ離れているしまさか採用にはならないと思っていた。

8月から働き始めて約6カ月。あの時表明したやりたいこと、まだ忘れちゃいないぜ。

別にファンドをやりたいとか、Impact Investingをやりたいとか、そういうことではなく、多分おカネの持つ社会的な意味を変えていきたいのだと思う。もっと良い使われ方があるはず。

今ねちねちと妄想している形はおそらくVenture Philanthropyに近い。が、この呼び方には常々違和感があった。「それって何?」と聞き返された時に「従来のチャリティのようにおカネをあげっぱなしにするのではなく、ベンチャーキャピタルのような手法で・・・」と続くこのベンチャーキャピタルのような手法、ってところが妙に浮く。

一つは私、ベンチャーキャピタルの手法とか滔々と語れるほど知らないし。笑。

もう一つは、既存の資本主義システムの型にすっぽりはまったベンチャーキャピタルっていうアプローチを模倣することが私がやりたいことの本質ではない気がする・・・というもの。(すごい偉そうだけど・・・)

で、先日IIHOEの川北さんがさらっと会議で言っていたこの一言にすとんと落ちた。

「モノ・コトにおカネを出していてはいけないんだ。Enterpriseに出すように変えていかないと」

すごくシンプルに、そういうことだと思う。Venture Philanthropyももちろんやろうとしていることは一緒だけど、ベンチャーキャピタルの手法を使って云々、ではなく、一言で言えばつまり、社会的インパクトを生みだしていくようなEnterpriseを育てていくこと。それがNPOだろうと株式会社だろうとなんでもいい。非営利の世界も、営利の世界も変わっていく、そういうおカネのまわり方。

具現化するときにやりたいこと3つ。

「Local Capitalを活用する」
投資ファンドが東京にあって財団や企業からInitial Fundが出ていたとしても、投資先が活動する地域からもおカネを出してくれる投資家や市民ファンドなんかを巻き込みたい。そっちからのおカネで十分足りるのであればおおもとのファンドからおカネは一切出さないのが尚良い気がする(人は出しても)。

これは投資家が親方日の丸になるのを避けたいが為。投資家と投資先は居酒屋で意気投合してそれ面白いから一緒にやろうよ!という関係が理想。もしくは、出資することで直接のリターンはないけど地域がもっと良くなることで間接的に自分もハッピーになるわ、という距離感のローカルサークルにはいっている市民からの資金提供が素晴らしい。「金出してやってんだ」メンタリティも「いいからおカネだけ下さい」メンタリティも排除したい。

「おカネの出し方」
投資かグラントか、の選択ではなく、投資もグラントも。Omidyar Networkがやっているように投資先の組織形態や成長度合い、取り組んでいる領域に合わせて投資、融資、グラントと柔軟に対応していく手法がいいな。融資だってマーケットレートで貸すやり方でもいいし、NPOバンクのように利率0%があってもいい。配当の決定にコミュニティのステークホルダーの許可が必要、といった条件付きの投資なんかも面白い。

「非組織化」
組織化しないなんて無理な話だが組織化で失われるものって多いって感じている。マザーテレサは組織化と効率化をすれば愛が無くなると言って彼女の運営していた家をモデルにした全国展開を拒否したとか。効率的で洗練された組織はどうしても遊びが無くなるし異質な人や気持ち悪いぐらい新しいアイディアが侵入する余地を少なくしてしまう。プロボノとかボランティアとかインターンとかイントラプレナーとかアルバイトとか入り乱れるような安定感の無い組織にしたい。

とどれもこれもただの妄想である。が、今年も今日で終わり。ここ数年ずっと個人的なテーマである新しいおカネのまわり方について勝手な妄想で閉じるのも悪くなし。来年は妄想を少しずつでも構想に進化させていきたい。

個人的に本当にExcitingな一年でした!世界は悲しみや混乱や怒りに多く触れた一年、そしてそういう困難に強く立ち向かう人間の強さを再認識させてくれた一年。新しい年をこんなに楽しみに迎えられることの幸せを噛みしめながら、来年もよりよい社会を作ることに微力ながら力を尽くすことを誓います。
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# by nanacorico0706 | 2011-12-31 17:20 | つれづれ

CSR担当になりました

12月1日からCSR企画推進チーム、というところで企業の社会貢献活動の企画提案を担当することになりました。

思えば昨年の今頃、大学院卒業後の進路を探り始めていた私。ビジネスとソーシャルどちらにも足を突っ込める立ち位置、というテーマでImpact Investingファンドやスタートアップの社会企業、国際機関のBOP担当、などの選択肢を見ながら、「CSRだけはナシだな」と思っていた。

企業の株価を上げるための「社会貢献活動」を担当するなんて絶対無理、というのがその理由。実際そんなに露骨じゃないし、本当に素晴らしい活動をしているところもたくさんある。とはいえ、やはり株主利益という神棚に足を向けられない構造の中で仕事をする息苦しさは想像するだけで自分には無理だな、という気がしていた。

一年後、まさかCSR企画推進チーム、というドンピシャな部に身を置くことになるとは思ってもみませんでした・・・(このチーム自体が10月に新設されたばかり)。が、けっこうワクワクしているし、この仕事に可能性も感じている今日この頃。

企業のCSR担当ではなく、財団というNPOの応援団みたいな立場からCSRを考え、そこに働きかけていくというのは面白いアプローチかな、と。ある社会課題を解決する為に一緒に出来ることって何でしょうか?御社のリソースを使えばこんなこと出来ちゃう気がするのですがどうでしょうか?そうやって社会課題と企業の接点を提示するところが最も重要な役割なのだ。

「ビジネスを通じて社会課題を解決する」、というのももちろん大事。それが企業とのパートナーシップの旗印でもある。だけど、個人的には「社会課題と向き合うことでビジネスが変わっていく」、というのがもっと大事、だと思っている。企業とのパートナーシップはCSR資金を活用する為だけにやるのではない。協働を通して企業側の意識や戦略やビジネスモデルに変化を起こすことに長期的な意義がある。

そういう意味では、先日財団でやったCSR Meetupでの気づきは大きかった。ワールドカフェ形式でのディスカッションを通して多く投げかけられた「誰の為のCSRか?」「誰にむけて発信するのか?」株主、社員、顧客、取引先、地域コミュニティ・・・財団で取り組むCSRの領域は最後のステークホルダー、地域コミュニティが中心。だけど、実は「社員が変わるCSR」ってすごく大事なのではないかと思った。CSR活動を通じて、社員一人一人が自分の働く会社と社会課題との接点を知るようになると、そこからじわじわ広がるインパクトは大きい。

結局社会が変わるということは制度やシステムの変革ではなく、一人ひとりの人間の世界観が変わることであると思う。

CSR Meetupでお話してくれた楽天高橋さんのメッセージ。「CSR活動はCSR担当者のものではない。社員全員のもの。」今年のCSR大賞を受賞したヤマトホールディングスさんは震災発生後すぐに東北の現場にいたドライバーさん達一人ひとりが自主判断で救援物資の運搬を始めたのだとか。

CSRという言葉や概念を知ってるかどうか、なんてどうでもいいことで、自分の仕事と社会の接点を肌感覚として分かっているか、なのだと思う。毎月頂くお給料以上の何かの為に自分は仕事をしている、という美学みたいなものが無意識の中にあるかどうかなのだと思う。

CSR担当として、一人でも多くの企業人の方に社会課題とビジネスの接点を見出して頂けるよう頑張ります。ビジネスが社会を変えていく時代から、社会課題が企業を、ビジネスを、資本主義のシステムを変えていく時代に。
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# by nanacorico0706 | 2011-12-11 11:46 | おしごと

What’s Mine is Yours

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私のモノはあなたのモノ。というタイトルが示す通り、モノを個人で所有する時代から複数の人たちで共有する時代になっていますよ、というのがこの本の主題。世界では今、所有からシェアへのパラダイムシフトが起こっている。

高級車や大きな家、ブランドものを所有することが豊かさであり幸福であった時代は終わった。私たちは所有のマインドセットから脱し、リソースやモノをお互いに共有し合うことに価値を見出している、と著者は主張する。車も家もブランドバッグもシェア。Collaborative Consumptionと名付けられるその消費行動は、他と共有し、協働しあうコミュニティを形成していくのだ、と。

美しいじゃないですか。素晴らしいです。だから、その本質を探りたくて期待大で読んだのだけど、どうにも納得出来なかった。確かに「シェア」を軸とした斬新な事例は山ほど紹介されていた。Craig’s list、Zipcar、Sharable、Couch Surfingなどすごく面白いモデルだと思う。だけど、こういったサービスやシステムを受け入れ始めた消費者の心理の変化に関する考察はあまりにも的外れな印象。著者の分析が正しいとすると、結論、パラダイムシフトなんて起きてない。

映画版Sex and the Cityのこんなシーンが引用されている。
アシスタントを探していた主人公のキャリーのもとに面接にやってきたルイーズ。気に入って採用を決めたキャリーがルイーズに最後の質問。「無職のあなたがなぜヴィトンのバッグなんて持ってるの?」と。ファッション狂のキャリーらしいちょっといたずらっぽい質問だ。ルイーズは恥ずかしがる素振りも無く、「これはレンタルよ」と。Bag Borrow or Stealというブランドもののバッグをレンタル出来るアメリカで人気のサイトで借りたものだ。「なんで知らなかったのかしら?!」とキャリーの驚き&感心で場面は閉じる。



著者は「ルイーズが借り物のヴィトンを照れも隠しもしなかったように、人々は今、シェアすることを誇りに思っているのだ」と言う。

本当にそうだろうか?

あの映画を見た人なら記憶しているかも。映画の終盤、アシスタントを卒業するルイーズに対して、精神的な支えになってくれたお礼にキャリーがプレゼントするもの・・・ウン十万のヴィトンのバッグである。箱を開けて「自分だけの」ヴィトンを見つけたルイーズは発狂寸前の興奮で歓声を上げる。彼女はシェアする行為に価値を見出してレンタルをしていたのではない。本当は所有したかったのだ。自分だけのヴィトンのバッグが欲しかったのだ。どうしても手が出ないそのバッグを仕方なく借りることでやり過ごしていたに過ぎない。ルイーズに限って言えば所有からシェアへのマインドシフトなんて起こってはいない。所有したくても出来ないから疑似的所有の為にシェアをしているに過ぎない。

この矛盾を著者はあっさりと認めてしまっている。「A key to a product service system’s success is its ability to satisfy our deep-seated need to feel like an owner for at least the time the product is in our care.」所有したいという人間の根源的欲求を満足させるような仕組みを作ることがコラボレーティブ消費の成功のカギだと。つまり、著者の言うシェアリングエコノミーとは所有せずに所有する満足感を得る為の仕組というわけ??所有からシェアへ、システムは移行しているものの、その仕組に参加する消費者の意識や価値観はシフトしていない。消費者は引続き所有したいのだ。

この本が描くシェアリングエコノミーのロジックは企業の所有からリースへのトレンドと同じレベルにしか見えない。ここ10年ぐらいで急速に進んでいる企業による資産圧縮。従業員を派遣に切り替えたり、工場を売却したり、自社ビル保有しないで借りる、所有しなくて済むものは所有しない。そのほうが投資効率がいいから。

所有することへの拘りが薄れているのは確かだろう。だがそれは、私たちがより責任ある、協調的な行動にコミットし始めているのではなく、単に経済的な意味でスマートなっているだけなのか?

いや、実際にはそうではない、と信じたい。コレクティブな何かを模索する現代人の心理ってもっと深いところにあるはず。そこがこの本では全く見えてこなかった。

著者は言う。消費者を変えるのではなく、システムをよりサステナブルなものに変えれば良いのだと。個人の利益を追求する消費者が今までもサステナブルでコレクティブなことをしていると気づきさえしないようなシステムに。消費者の意識を変えることなく消費行動を変えさせることがミソなのだ、と。サステナブルな消費が実現さえすれば消費者のマインドセットを変える必要はない、と。

???

社会の変化というのは個人の意識の変化→システムの変化というベクトルと、システムの変化→個人の意識の変化という双方向のインタラクションで有機的に起こっていくものだと思う。著者が想定するようなシステムの中で無意識的に条件反射的に行動するような消費者像にはかなり違和感。

そんな薄っぺらいものではないはずだ。シェアハウスや時間バンク、exchangeやクラウドファンディングのもたらす社会的インパクトの調査とかやったらすごく面白いのではないか。参加した人たちの意識や価値観がどう変化していったか、全く変化しないのか。これだけたくさんの事例をさらって膨大なインタビューをしているのにもったいないな・・・。

シェアリングエコノミー、所有と独占の常識をひっくり返す新たな経済やマーケットの仕組が必要とされていることは確かだと思う。システムの変革も人の意識の変化も同時並行的に起こっていくはずだ。パラダイムシフト、これから。
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# by nanacorico0706 | 2011-12-04 12:58 | 読書

脱消費社会を考える


2年間の留学生活から東京で会社員、に戻るにあたって一番怖かったことの一つが、ハイパー消費社会の渦にもう一度飛びこまなきゃいけないことだった。

オシャレなお店なんて皆無のアメリカ片田舎生活のお陰で私は2年間まともに洋服も買わず、化粧もせず、外食もせず、通学は毎日徒歩、スタバさえないのでコーヒー自分で入れて授業に持って行く、みたいな超低度消費社会に居た。自炊の為の食材ぐらいしか消費してないんだから。それでもなんの不満も無くむしろあー私こんなにシンプルな生活出来るんだ、となんとも等身大で気持ちのいい日々。

2年ぶりの帰国・・・既にどっぷり超高度消費社会の思惑にはまっている気がする。もともと一般的女子に比べると断然オシャレにかける投資は少ない。それでも帰ってきて3カ月でアメリカに居た2年分ぐらいの買い物は済ませた気がする・・・。東京の女の子たちが俄然カワイイこと、通勤するだけで素敵なお店が毎日目に入ること、人心掌握に長けた広告の数々・・・だから都会は嫌なのーっ。

フランスの社会学者ボードリヤールは「われわれはモノの時代に生きている。つまり、モノのリズムに合わせて、モノの絶えざる連続に従って生きているのだ。」と言った。東京での生活でいつも自分のペースがつかめないと感じていたのはまさに、モノのペースで生きてしまうからではないか。

私は10年かけて自分の消費スタイルを変えていかなきゃいけないと思っている。既製服にまつわる途上国の低賃金労働の現実や、大量生産・大量廃棄がどれだけ環境に負荷をかけているかを勉強してきたのだ。ちゃんと罪悪感無く自分の身の回りのモノの面倒をみることは私が自分に課すべき責任。

そんななかで最近注目なのはシェアリングエコノミー、コラボレーティブ・コンサンプションなど、所有からシェアへの価値観の転換。これまでの消費システムを根幹から揺るがすパラダイムシフトが起きつつあると言われている。本当か?

個人的にも興味があって色々と調べてきたけど自分自身何かこういった新しい動き、試したことは無かった。ということで、Swapping=物々交換サイトに参加してみたのです。いらなくなったものを捨てるのではなく、売って現金化するのでもなく、誰かが手放したいと思っているものと交換しよう、ということ。ゴミを出さないという意味でエコであり、大切にしてきたモノが人から人へ社会の中で循環していくというコレクティブな側面もある。

参加することで何か価値観の変化があるのでは、と期待をしてました。が、個人的には全く無かった。

気づき1:物々交換も限りない物欲を刺激する今までの消費システムと同じ

サイトの動向が気になっちゃってなんか交換しなきゃ、みたいな焦燥感も煽られたりして物欲は拡大傾向・・・。交換リストにシャネルのバッグとかずらーっと並んでいてげんなりしたり。ブランドものがたくさん出品されていることはサイトが継続的に運営されるためには非常に重要なのだろう。結局のところそういう商品に最も需要があるのだから。消費者はお堅いお説教を聞くこと無く今まで通りシャネルに有りつきながら実はエコが実現出来ている、みたいな。罪悪感や自己犠牲の感覚を味わうことなく、自己利益の追求の過程で知らず知らず行動が変容してしまう、というのが普通の人を大きなムーブメントに巻き込む秘訣なのだとも言われる。

ただ、社会を変えることは突き詰めると人々の世界観を変えることだと思う。世界観を変えずに行動変容を求めてもやはり根本的なシステム変革は起きないのではないだろうか。コーズリレーテッドマーケティング全盛の今、楽しくなければ一般の人の関心を引き、巻き込み、広がっていく大きな活動にはならないのだ!という主張はもちろん正しい。だけど、臭いものにふたをし過ぎて本質的な変化を阻害しているとしたら本末転倒だ。少しでも臭い物の存在に気づき、考える仕掛けがなきゃいけないのだろう。ヴィトンのバッグに目がくらむ前に一瞬立ち止まって自分の消費行動の社会や地球への影響について思いをめぐらすような仕掛けを。

気づき2.コレクティブ消費ではない

コレクティブ感なかったなー。交換する人とネット上での会話は多少あるものの、事務的。いらないものを淡々と処理する感じ。「海外ブランドもの以外は交換しません」なんて条件付けている人もいたりして無機質な等価交換のルールが出来ていたりもする。交換詐欺なんて悪質なものもあるんだって。極めつけは私のもとに届いた交換商品がボロボロだったこと・・・とても使えません、ってぐらい。処分しながらなんとも悲しい気持ちに。

再びボードリヤール。「消費者たる限りでは、人は再び孤立し、バラバラに細胞化し、せいぜいお互いに無関心な群衆となるだけである。・・・消費はまず個人的対話として演じられ、個人的満足や失望とともにこのような最小限の交換の中に姿を消してしまう。消費の対象はひとを孤立させる。」

Sharing Economyのキモであるシェアの要素はそこには無い。モノを得たことの満足や失望という個人的な一瞬の感情の動きがあってその後に何も残らないという意味で普通の消費となんら変わらない。

ひとまずサイトの方は脱退。来週はアメリカ式Clothing Swapのイベントに参加してみることにした。もともとSustainabilityの意識の高い美容院が主催だとか。素敵な出会いがあるといいな、と思っている。

消費行動を変える自分実験進行中・・・
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# by nanacorico0706 | 2011-11-19 14:38 | つれづれ

Anthony Giddens 『The consequences of modernity』読了。


a0158818_1664190.jpg邦題は「近代とはいかなる時代か?」

タイトル通り、近代ってどういう特徴が有る時代なの?それまでと一体何が違うの?ということを論じた本。ギデンズは基本的に今の時代はポストモダンで近代は既に終わった、という立場はとっていない。現在というのは近代の究極的な姿、という考え方。

ギデンズが挙げている近代という時代を構成する決定的ないくつかの要素のうち、最も興味深かったのが専門家の存在をベースにした抽象的信頼システム。人々の生活全般が医療、行政、法律、金融など細分化された専門家の提供する知識に依存して成り立っている世界。近代以前は時間と空間を共有した人対人の関係性で成り立っていた毎日が顔の見えない非人間的なシステムによって構成されていく。

専門性に従って細分化したシステムは普通の人には全くコントロール出来ないどころかその仕組を理解することさえ出来ないレベルに複雑化・巨大化していく。この抽象的システムの一例として繰り返しギデンズが言及するのが「核の脅威」だ。核兵器の使用や原子力発電所での事故を引き合いにだし、一般市民が全くコントロールできない脅威と共存することの不可避性が近代の一つの特徴だと指摘している。1990年出版の本なのだけど原発の脅威と向き合わざるを得なくなった今の私たちの状況への示唆が散りばめられていてドキっとしたのでした。

Low probability high-consequence risks will not disappear in the modern world, although in an optimal scenario they could be minimized.

蓋然性は低いけれど起こった場合のインパクトが甚大なリスク、はまさに1000年に一度の脅威に直面した原発事故。巨大で匿名性の高い抽象的システムが支配する世界ではこのリスクの責任の所在も、対処の方法もきわめて不明確。人間社会が創り出したのにもかかわらず、生身の人間の手に負えないほどシステムが暴走する構造は金融危機とも重なる。

こういった社会を前にして私たち市民が、一個人が取る態度とはどういったものか?ギデンズは諦めや悲観主義がまん延すると考える。自分のコントロールの及ばないところで社会は回っているのだ、という宿命主義的態度。前近代の人々がコントロールの及ばない自然の摂理・脅威に対峙して感じた「宿命」という説明が、科学によって自然の脅威を克服してきた近代で別の形を取って再度現前化する。

Fate, a feeling that things will take their own course anyway, thus reappears at the core of a world which is supposedly taking rational control of its own affairs. The sense of dread which is the antithesis of basic trust is likely to infuse unconscious sentiments about the uncertainties faced by humanity as a whole.

近代は科学の進歩によって知の確実性が増したというのは正しくない。近代ほど物事が曖昧な時代はないのだ。どの程度の人がスイッチを入れたらどのように電気が供給されるのか、そもそも電気とは何か?ということを説明出来るだろうか? 

というギデンズの問いかけは正しい。原発の事故発生から流れ出てくる情報の不確かさ、不十分さ、開示のプロセスの胡散臭さ。さらに言えばどんなに正しく情報が提供されたとしても原発の仕組やそのリスクについて私の脳みそでは消化しきれない・・・という無力感。エネルギーという自分の生活にこんなにも密着した事象にも拘わらずまったく自分の理解の及ばないブラックボックスでことが運んでいること。目に見えない放射能がこうしている間に人の体を蝕んでいたらどうしよう、という漠然とした不安感。

横たわるのは現代社会における「信頼」という大きなテーマだ。ギデンズによれば抽象的システムに支えられた現代社会の信頼性はfaceless commitmentによって成り立っている。顔の見えない、匿名性の高い責任。東京電力、とか政府、とか原子力保安院、とか。

政府が言ってるから大丈夫、上場企業だから安全、格付けA+だからOK、みのもんたさんの番組で言ってた(?)、みたいな抽象的システムに基づく信頼感。

過去10年でこのfaceless commitmentに基づく専門家システムに対する信頼が大きくぐらついてきた。偽装牛肉だの不正会計だの企業の不祥事はもうこれでもかってぐらい露見したし、金融危機はまさに複雑化して誰が悪いのかはっきりしないグローバルな構造を世界に知らしめた。肥大化した官僚的な政府は世界中で機能不全が指摘されている。

現代を象徴する輝かしい特質であった高度に専門化された効率的な巨大システムは既に信用失墜して人々は新しいシステムを求めている。すでに信頼性の定義は専門家の評価から市民同士の人気投票的システムにすり替わりつつある。口コミによる一般人の評価、ソーシャルメディアを通したある程度閉じたコミュニティでの情報交換の定着は、信用の定義の無意識的な変質を意味しているかもしれない。

権威に基づく信頼ではなく一般人の一般人による一般人の為の信頼システム。果たしてこのシフトは良いことなのかな?

より信頼が担保される方向に向かっているか?という問いは多分有効ではないのだろうと思う。突き詰めたら、結局何が本当に信頼に値するか、なんて分かんないよねー、というところに行ってしまう。

問題は信頼度の高さではなく、信頼する人間の態度の変化なのかも。新しく起こっているソーシャルネットワーク的信頼システムが面白いのは一般の人たちの能動的な参加を促す可能性があるからだ。政府が言ってるから信頼していいんでしょ、責任取ってくれるんでしょ、という受け身の態度ではなく、信頼するかしないかは私に任されているんだ、っていう自立した緊張感。もし何かあったときは自分でリスクを負わなきゃ、っていう覚悟。信頼システムは外部にある大きくて揺るがないものではなく、自分も一人の参加者である流動的なシステムなんだという認識は前向きな社会参加を促すかもしれない。ギデンズは「市民の無関心」は匿名性の高い近代信頼システムの基本的特徴だ、と言っていた。この無関心を破る鍵がここにあるのではないか。

ギデンズも最終的には個人主義的などうにでもなれ、的態度よりもアクティビズムが勝利する、と言っている。近代システムでは誰ひとりとして「外部者」にはなりえないからだ。
For, to repeat, in respect of the balance of security and danger which modernity introduces into our lives, there are no longer ‘others’ – no one can be completely outside. Conditions of modernity in many circumstances provoke activism rather than privatism, because of modernity’s inherent reflexivity and because there are many opportunities for collective organization within the polyarchic systems of modern nation-states.

一般の人たちの声を取り入れたNPO・NGOを評価する為の新しいシステムを作れないか?というようなことを最近仕事で議論していたこともあってがっつり刺さるギデンズの議論なのでした。

このテーマ、引続き考えよ。
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# by nanacorico0706 | 2011-10-30 16:15 | 読書

社会学を勉強しています


勉強、と言ってもそんな大袈裟なものでもなく、本を読んでいるだけなのだけど、あえて「これは勉強だ」、と決めた。暇つぶしに本を読む、という姿勢ではなく学習モードで本を読んでちゃんと文章に残す、と決めたのだ。

留学中の2年間は勉強ばっかり。帰国して社会の荒波に戻るにあたって、あの2年間の知的興奮状態をどうにか実社会の忙しい毎日でも維持したかった。机上で空論をこねくり回しながらも、きちんと眼前の社会でもがく、ということをやっていきたい。議事録とか稟議とか根回しとかに愛情こめつつ、理想とは何ぞや、ということを考えるスペースを脳内に確保したい。というのが目標。

「民が民を支える社会を作る」、とか「ビジネスを通した社会課題の解決」、という仕事上の旗印はあれど、現実には社会を構成する一つの組織体の中の一人の非力な人間として小さな小さな積み木の一つを動かすことにもひーひー言ってるのが毎日なわけで。小さなことを積み上げるのがもちろん大事だけど、その先にある大きな絵がだんだんぼやけていくのはいかん。大きな絵にも毎日向き合って、修正して、手を加え、ということを日常生活に組み込みたいと思った。

で、「勉強」を続けることを決めたのだ。なるべく毎日の業務と関係ないことがいい。なるべくマニアック且つ高邁ですぐには役に立たなそうなものがいい。実用的というよりは知的興奮を感じられるものがいい。と、考えた結果、大学院の授業で最も鳥肌立ち率が高かった社会学系のテーマに絞ることに。

竹内洋さんという学者さんが言っていた。社会学の面白さは「公式的見解や表明の背後にある構造が見通され『ものごとは見かけ通りではない』として現実感が一変する知的興奮にある」と。そこからふーんなるほどね、で終わるのでなく、懐疑的になったり、皮肉っぽくなってしまうのではなく、もっと素敵な未来の可能性を探るヒントを得たい。社会の現実をクールに見つつもちゃんとその社会のなかでもがく、あがく、暴れる。それが大事だと思うのです。

ある人が社会学的理解は、人間の営みを「社会的カーニバルと見る喜劇の感覚」だと言った。そこにあるのは悲嘆や諦めではない。人生は一幕の劇に過ぎない、というぐらいの達観。よくよく考えてみると毎日くだらないことにあたふたしている私ってば笑っちゃうわ、というヘラヘラした感じ。それでも一生懸命、社会をより良くするために身を尽くそう、という覚悟。と、同時にとりあえず好きな人と好きなご飯食べれて幸せ!みたいな瑣末なことに胸いっぱいになっちゃう自分を愛おしいと思う素直さ。

内田樹さんがどこかで、高邁な哲学的内省を継続する為には深い深い思考のプロセスが閾値を超えたところで「ま、そんなこと考えてもらちがあかないから、もういいや、ラーメンでも食おう」という日常的なリアリティへの帰還が肝要だ、と力説していた。あのデカルトにもラーメン的帰還先があったらしい。曰く、「第一の格率は、私の国の法律と習慣とに服従し、神の恩寵により幼児から教え込まれた宗教をしっかりと持ち続け、他のすべてのことでは、私が共にいきてゆかねばならぬ人々のうちの最も分別ある人々が、普通に実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見に従って、自分を導く、ということであった」

あのデカルトも答えの出ない哲学的難問は目の前にぶら下げつつ、とりあえず今日のところは普通の人の普通の感覚に従おうとしていたのだ。

能力も無いのに世の中の難問をうんうん考えてどたばた走り回ってる私も十分喜劇だけれど一幕のカーニバルなら思いっきり笑える感じに仕上がれば宜しい。閾値を超える前に早々ラーメンに帰還しがちではありますが、知的修養を積んでいきたいと思います。役に立たなそうなオススメ社会学名著、教えて下さい!
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# by nanacorico0706 | 2011-10-15 22:40 | 勉強


2年間の米国留学生活をゆるゆると綴ります・・・
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