旅の途中



力が欲しい、と彼は言った


企業とNPOのパートナーシップ、というテーマでここ最近何冊か本をさらって、考えたのはパワーバランスについて。

多くの本がNPOは企業の下請けになっちゃいかん、おカネをもらいに行っちゃいかん、イコールパートナーになるのだ!と説いていて、ああそりゃそうだな、と思った。が、そんなに簡単じゃーない。力関係というのは非常に難しく、だからこそ興味深い。

慈善事業にまつわる力関係はドナー>助成先が普通だ。従来型の無償の寄付に基づく慈善事業ではどうしてもNPOはおカネをくれる人の方を向いて仕事をしてしまいがち。説明責任、と言った時最終受益者よりもドナーに対することを指す場合が多い。Fundraisingに多大なリソースを割いて本来の使命である受益者への価値の提供が手薄になってしまうことだってあるのが現実。ある人は助成事業を担当していて助成先を見る目と、自分でプロジェクト作ってる時にパートナーのNPOを見る目が全く違う、と言っていた。助成、という構造がその仕組に関わる当事者の視点を既定し、その枠組みが当事者同士の関係性を決定してしまう。

投資もやっぱり投資家>投資先。だと私は思う。Impact Investingに代表されるような新たなソーシャルチェンジの為のおカネの出し方を考える時、既存の「投資」のスキームを使っちゃダメなんじゃないかとずっと思っていた。どうしても投資家と投資される側の力関係がアンバランスになり過ぎる。どうしても株主が王様になってしまう。そんな気がしている。ソーシャルベンチャーファンドでもどうやって投資先の事業をモニタリングするか?といった課題設定が普通に出てきちゃうくらい投資家が偉い、世界。投資、という枠組みが「する人」と「される人」の関係性を生みだし、常識がその関係性に求めるような役割を知らず知らずそれぞれの当事者が演じてしまう。

Cooperativeのようなおカネの出し手と受け手が一致しているような仕組みに強く惹かれていたのはこういうパワーバランスが限りなくフラットになるスキームではないかと思っていたから。だけど、そうも単純ではないのだろう。みんなで話し合って決めましょう、的な直接民主主義の仕組って実は最もむき出しのパワーが顕在するもの。声の大きな人の意見が通ってしまう世界に陥るリスクも高い。

と、こういったことをブレストしながらパワーバランス云々、と鼻息荒く語る私に上司が一声。「力の不均衡から自由な関係性なんてこの世にあるんだろうか?」

はい、無いと思います。助成先をパートナーと見て応援するか、助成してやってんだ、と上から目線になるかは突き詰めれば個々人の人間性の問題だ、とその上司は言った。20年助成事業に携わっている実感ヒシヒシ、大変説得力が有りました。でもやはりその個人も日々世界と接して絶えず変化を繰り返しているのであって、外界から発せられるシグナルが変われば人間の行動も変わると思うのです。

力の不均衡から自由な関係性なんてない、という上司の言っていたことは正しいと思う。そして、もうひとつ正しいのはこのパワーバランスは常に動態的だということ。だとすると、フラットな関係性を保つような資金循環の構造を考えるのではなく、関係性を固定化しがちな「構造」や「スキーム」や「制度」そのものを「作らない」ことがキモなのかもしれない。

制度化しちゃ、だめだと思う、とMITメディアラボ所長の伊藤さんがさらっと言っていてすごく刺さった。ソーシャルベンチャーについて質問に行った時のこと。

メディアラボでの研究資金はご飯食べながら雑談してるAさんとBさんが新しいアイディアを思いついて盛り上がって、たまたまお金持ちのAさんが、たまたまアイディアを実現する能力のあるBさんにポイっと出すぐらいの感覚がいい、とも語っていた。ご飯食べながら、と仰っていたのがポイントだと私は思うのだ。その空間はどこかしがない居酒屋とかがいいのだ。申請書とか役員会議室とか現場視察とか、そういう構造化・システム化されたものと対極にあるもの。まだ定義されていない関係性。そこに無限の可能性があるんだと思う。

だから、企業とNPOのパートナーシップを考えるのなら、どういう仕組がイコールパートナーシップを生むか?を問うてはいけないのかもしれない。伊藤さんが言ってた居酒屋状態を無数に創り出していくことが私たちの仕事だ。
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# by nanacorico0706 | 2011-09-26 00:34 | つれづれ

『辺境から世界を変える』


a0158818_12462517.jpgTwitterを通じて知り合った加藤徹生さんの本。 正直、企業家一人一人に焦点を当てたルポ、と聞いて最初はそんなに興味がわかなかった。ソーシャルビジネスに関する勉強はある程度してきたつもりなので、「今世界ではこんな面白い人たちがこんな斬新なことやってますよー」的に表面をなぞるような内容だったら少し物足りないかも、と。でも読み始めたら引き込まれて一気に読んだ。

それはきっと加藤さんの「目線」が好きだったからだと思う。つまり、その目線が徹底して本当の草の根のリーダーたちに置かれていて、彼らの心のひだを丁寧に拾っていたからだ。

ソーシャルアントレ、というといろんな文脈で話す人がいるけど実は先進国のエリートがぴかぴかのキャリアを捨てて立ち上げました、かっこいい!!終わり。みたいなストーリーってけっこう多い。貧困層を救うためのソーシャルビジネスの現地オフィスが上流階級のスタッフで固められていて「リキシャ?危ないから乗ったことありません。」と言われてげんなりしたこともあった。資金提供する大富豪やMBA的経営スキルをまとったビジネスエリートが主役のソーシャルビジネスではきっと本当の変化って起こらないような気がしていたのだ。

加藤さんの視点はそこにはない。ことが気持ち良かった。題名が表すように舞台は「辺境」だ。当事者自身が足元から変化を起こしていく。NYやボストンのカンファレンス会場には無かった泥臭さがぷんぷんする。こういうリーダーが他にも世界にゴマンといるとしたらすごい楽しいな、と元気が出た。

一番はっとしたのは事業のノウハウや手法を積極的に公開し同じモデルをどんどん真似してもらおう、とするセルコ社。この姿勢がソーシャルビジネスの本質なんだと思う。

これって簡単なようでスゴイこと。真似した会社に市場を食われて先行者だった会社が立ちゆかなくなることだってもちろん有りうるのだ。ある意味では、それでも良い、という覚悟がなければ出来ない。会社としての未来永劫存続することがミッションではなく、社会にとってベストなソリューションが提供されていること、がミッション、という大前提があるからこそ自らの会社が無くなるリスクも冒せるというもの。市場での競争を左右する指標が利益以外の価値に収斂されていく。まさにスケールアップ(組織としての拡大)ではなくてスケールアウト(モデルの拡散による社会的インパクトの拡大)が問われているということ。

加藤さんはこの拡大戦略の2分類を、両者とも必要で、特に発展途上国のように市場が未熟なところではスケールアウト型で一気に業界を立ち上げるのが良い、と言っている。つまり、業界が成熟すればスケールアップ型の拡大戦略が有効になっていくのだ、という含みがあるのかと。

でも、すごく大胆に妄想すれば、私はビジネスの世界がスケールアウト型がマジョリティ、になれば面白いのにな。と思う。いや、なっていくんじゃないか、とさえ思ったりする。規模の経済を追求するスケールアップ志向の市場が行きつく先はシュンペーターが言っていたみたいなイノベーション無き独占市場なのだとしたら、ローカル事情にカスタマイズされた同種モデルの中小企業がいっぱい、みたいな世界、の方が面白くないか?

市場レベルのリターンを求めるインパクトインベストメントの最近の動向を見ていると、ソーシャルビジネスはこうした投資家を持つことによってスケールアップ型への転換を余儀なくされているのではないかと思ったりする。例えば賛否両論激しいマイクロファイナンスの上場、もっと多くの貧しい人にサービスを届ける為には市場から資金を調達するしかないのだ!という議論が多いけど、株主というステークホルダーを持ちながらスケールアウト型の戦略を取り続けることはやはり難しいのではないだろうか。

加藤さんが提案しているプレーヤー同士の「対話のプラットフォーム」の重要性は多いに納得。でも、ブラックリストの共有だけが本当に意味のある対話とは思えない。ノウハウ、情報、イノベーションが共有され、「スケールアウト」していくようなシステムって何か?加藤さんの問いかけは私も今後の宿題。

「辺境から世界を変える」、の意味はいつか辺境が中心と同化する、ということではない。辺境から来た新しい価値が中心を揺さぶっていくことだ。鳥肌モノのソーシャルビジネスは既存の価値観が定義する「市場」で新しいモデルを創り出していくのではなく、市場を定義する価値観自体を覆すものだと思う。

と、相変わらず考えはまとまらないけれど、色々とインスピレーションを得た一冊なのでした。加藤さん、今週会うから疑問をぶつけてみよう。
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# by nanacorico0706 | 2011-08-15 12:50 | 読書

就職しました


ご報告。

8月1日より日本財団で働いています。
まだもやっっとしてますが企業とNPOの連携、CSR、寄付事業なんかをやってる部署です。
ハードルの高さや色々現実見え隠れしつつそれも全部ひっくるめてわくわくしています。上ってみたい山が見えてきたような。

難しいこととか共感出来ないこととかあっても、それが自分が精神的にコミットできてる課題だとアツクなれるのがいい。「なんか違うと思うけどまあいいや最終的には私の知ったこっちゃないし」、というメンタリティで仕事をするのはやはり悲しい。社会のためにならん!と堂々と青臭い怒りをぶつけられる様な場所に身をおけることはやはり大事なのだ。。

尊敬する叔父から頂いた就職祝いには「心頭滅却、何事にも変えがたく職を修める」とのメッセージが添えられていた。まずは愛情こめて仕事をしよう。組織に根を張らず社会に根を張れるように、好奇心をもってアンテナを立て続ける。

行ってきます。
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# by nanacorico0706 | 2011-08-11 22:09 | おしごと

石巻ボランティア

3月11日、映画のワンシーンのような津波が街を飲みこむ映像を前にただ呆然とすることしか出来なかった。私はアメリカにいて、東京にいた人が体験していたような非常事態も共有出来なかったことに漠とした罪悪感を抱きながら、毎日日本からの情報に涙することしか出来なかった。あまりにも悲しい現実に触れた涙と、そこに垣間見えた人間の強さや偉大さ、そういったものに対する涙。

あの日から数週間、被災した人の悲しみに心を重ねて、日本中が「何か私に出来ることはないか?」と問うたのではないだろうか。すぐにでも現地に飛び込んで何かしたい、というたくさんの人の想いに対し、阪神大震災の教訓もあって、「素人の人は機が来るまで待ちましょうね、今は医療関係者や自衛隊の方に頑張ってもらう時期です」、といった賢明なメッセージが寄せられていた。私も、「今は何も出来ないけど、機が来たら、必ずなんらかの形でお手伝いをしよう」、とその時決めたのだ。

4カ月経って帰国。東京の様子はすっかり日常を取り戻している。原発の問題や復興の様子が報道されることはあってもあの時のように日本中が被災地に想いを届けているような切迫感は無い。当たり前だけど、だんだんと関心は薄れていくもの。私だってそう。震災直後に大学で募金活動を始めた時の熱量はもう無い。

それでも、現地にボランティアに行こう、と決めたのは、自分との約束を守ろう、という一心だったと思う。恥ずかしいことかもしれないけど、行くぞ!という強い想いに従ったというよりは被災地のことを忘れかけていく自分に鞭を振りたかった。あんなに現地に行きたいと思っていた気持ちを失くしかけている自分がイヤだった。行きたい、というよりは行くって決めたのだから行くのだ、という決意だったと思う。弱い自分だ。

3日間、宮城県の石巻で民家の床下のへどろをひたすら掻き出す、という作業。たったの3日だったけれど、行って良かったと心から思う。「本当に助かります」と言って下さった、それだけだ。無口なおじいちゃんが作業を終えて最後にボランティア一人一人に握手を求めてお礼を言ってくれた、その握った手の感触、それだけ。それだけで、本当に行って良かったと思う。5人、10人が一日かがりで一軒、といった小さな歩みだけど、私のような素人の出番が今、来ているのだと感じる。

たったの3日間の滞在で、数人の方と少しお話をしただけではどのように受け止められているかを声高に語ることが憚られる。ただ、たくさんの方が現地に行くことに意義があるとすれば、行った人たちが現地のことを「忘れない」ということじゃないだろうか。「忘れないこと」というのは震災直後ブログやTwitterで繰り返し語られていたことだと思う。私たち被災していない者に出来る最大の支援は忘れないことです、というメッセージ。あの日のことを自分のこととして考え続けることが寄付とかボランティアとか小さな行動に繋がるし、関心が集まり続けていることが国としての復興活動にも影響する。一人一人が思い続け、気持ちを送り続けるという静かな波が現地の復興を支えていく大きなうねりに重なっていくのだと思う。

短い間でも現地にボランティアに行くということ、物理的にそこに身を置いたということ、テレビの映像ではなく、生身の人間と対峙したということ、彼らの笑顔、握手した感触、そういう感覚は強烈だ。物理的にそこに居た、という事実は当事者意識を生む。「知る」ことではなく「感じる」ことのインパクトは大きい。それが忘れないこと、に繋がるのではないかと思う。

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こういう特別な経験をすると人間は「何を学んだか」ということを整理しようとしたりするもの。修学旅行の感想文とか昔はすごくうまかった気がするのだけど、最近めっきりダメだ。こうも思う、こうかもしれない、と思いを巡らす帰りのバスで、どれも誰かが言っていたことの受け売りにしか感じられなかった。結局、誰かに伝えたくなるようなもっともらしい学びには至らず。でも仕方がない。これが私のスピードだし、このモヤモヤが正直なところなのだ。分かった気になるよりは考え続けたほうがいい。抒情はいつも遅れてくる客観視の中にある。

結局最後に至った想いが「忘れないこと」だった。正確に言えば、人間は忘れる生き物だから、私はすぐに忘れる弱い人間だから、忘れない、と心に決めることだ。「妻と2歳の孫と三人で仮設住宅におります」と言ったおじいちゃんに2歳の赤ちゃんの両親はどうしたのかを聞けなかった、あの時のあのおじいちゃんの表情を、握った手の強さや差し入れしてくれたアイスの味やそういう記憶をちゃんと刻み込んで、関わった者としての責任を感じること。勝手に責任を取ろうと努力すること。どんなに小さな行動でもそれを自分の責任として軽やかに背負って歩けるように。無力な私に出来ること。今日も想っています。
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# by nanacorico0706 | 2011-07-27 23:51 | つれづれ

29


誕生日から既に3週間が経過しましたが、20代最後の歳を迎えて、抱負。

愛すること。照。

いや、恋愛とかそういうことではなく(そっちも頑張らなきゃいけないけど)、お世話になっている人、友人、家族、自分自身、隣のおばちゃん、コンビニの店員さん、まだ会ったことのないたくさんの人を愛するということ。それから、仕事、家事、駅までの道、満員電車、寝苦しい熱帯夜も愛するということ。

ある人がある本で「理性の愛」というものを語っていた。感情ではついていかなくても人間としてやるべきことなら理性によって愛し続けることが必要、と。

愛情って「情」がつくぐらいだしもっとほわんとしてあったかい、自然発生的なものというイメージがあったのだけど、愛って実は決意や覚悟に近いのじゃないかと最近思っている。自然に発する愛情が先にあったとせよ、それを持続する為には愛し続ける、という決意と継続する忍耐力や強さが必要なのだと。

だから、好きだなーとか嫌いだなーとか感じることに身を任せるのではなく、愛することに努める人間でありたい。理解できない、と閉じずに、理解してみよう、と努める。今日会う人に何か私が出来ることはなかったか、と意識してその人と向き合いたい。今日接した全ての人に自分が笑顔で、真摯に、誠実に接していたかを問いたい。

あっちに行くかこっちに行くか、進路の相談に行った時ある教授が「どちらの道を選んでも最終的にはその決断を正しいものにするまで努力し続ければいいのよ。」と言ってくれた。どんな仕事どんな雑事も本当に愛情をもって取組まない限り本質に辿りつけないと思う。その愛情は「好き!」みたいなふわっとした感情ではなく、愛情をもってやるんだという決意であり、覚悟であり、信念であると思う。

20代、自分の好きなことをやって色んなところをフラフラしてきた気がする。東南アジアの田舎を旅したり、商社で飲んだくれたり、金融資本主義の権化みたいな世界で仕事したり、留学したり、NGOで働いてみたり。ある意味、「好き!」「嫌い!」に素直に反応して行動した20代だったのだと思う。親戚には「七ちゃんは糸の切れた凧状態だからね~」と言われてグサリときたこともあった。

30代は糸をつなげたいと思う。糸の切れた凧として経験してきたたくさんのコトをどうにか地上に結び付けたい。その為には、愛することが必要なのではないかと思うのだ。自分の感情に素直になるだけではなく、他人の感情にもっと耳を澄ませたい。何がしたいかだけでなく、私にどんな貢献が出来るかを考えたい。あと1年、どんな場所にどんな具合で凧が着地するか・・・自分でも楽しみな誕生日なのでした。

愛の無い行動をとっていたらどうか注意して下さいね。よし、頑張る。
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# by nanacorico0706 | 2011-07-25 14:23 | つれづれ

刺激的な


クローズドな集まりだったので実名は出さないでおこうと思うのですが、すごい刺激的な方に先日お会いしたので備忘の為に会話の端々をメモ・・・

「色々なベンチャーの立上げに関わってきたけどメディア系の面白いベンチャーは結局上場すると腐ってしまう。最終的にモノポリストになるだけだ。長期と短期を両方出来る場が必要」

「あるカンファレンスでは一人一人の参加者に学生のバディが付いて空港からホテルまでの送り迎え、当日の身の回りの世話もしてくれる。そのバディの人選が結構にくくて、参加者の偉い人が気に入りそうな学生を、学生が興味を持ちそうな参加者をマッチングしてくれる。数日間一緒に過ごしてなんか立ち上げよっか?って話になることも。こういうセレンディピティが生まれそうな企画って楽しい。」

「経済学者がなんでもマーケットを使って説明するように(例えば彼らは自殺も経済的に説明しちゃうよね)、デザイナーがあらゆる現象をデザインの枠組で捉えるように、メディア論、というものがあってしかるべきだと思っている。」

「ソーシャルビジネス、組織化しちゃダメなんじゃないかと思う。ファイナンスでも無い。もっとインフォーマルに。誰がやるかもすごく大事。」

「スポンサーとかおカネを出す人を探すときは、イメージとしてご飯食べながらなんか面白いアイディアについてワクワク話している2人がいて、たまたま片方が金持ちだからお金だそうか、というのが理想。お金出すんだからこういうのやってよ、みたいな力関係になるとうまくいかない」

文脈は自分が関わろうとしている世界と必ずしもドンピシャじゃないのだけど勝手にすごく刺さる視点が多かったのだ。どんな「仕組」とか「システム」がいいのか?と考える癖があるのだけど、もっと人と人なんだな、と。もっとセレンディピティであり、もっと居酒屋での会話であり、もっとぐちゃぐちゃで体系立ってないものなんだ、と。

あと同じ人があるインタビューで言っていた「新聞程度の知識を広く知っていることをもってジェネラリストと思ってはいけない。」と言っていたのがグサリ。当たり前の原点は広く心は開けて深く深く自分の頭で考えることだ。頑張ろう。
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# by nanacorico0706 | 2011-06-11 05:04 | つれづれ

Try again, fail again, fail better

ニューヨークへは何度も行ったがいつも用事を済ませてとんぼ帰りだったので帰国する前にどうしてもメトロポリタン美術館とMOMAだけはゆっくり見ておきたかった。何が目当てと言うわけでもなく、見とかなきゃ、という消極的な理由で行ったのだけど、思いがけず印象的な展示と出会ってしまったのだ。MOMAで。

しょっぱなに見たMOMAの特設展、Francis Alÿsという聞いたこともなかったアーティストの作品にすっかり魅せられてしまった。基本的には10分程度の映像作品が多く、何も残らないのに妙に残像が鮮明な気持ちの悪い作品ばかり。例えばSometimes Making Something Leads to Nothingという題の5分ほどの映像は、大きな氷の塊を一人の男が引きずり始めて、最後に溶けてなくなるまでひたすら街を歩きまわるというもの。そして最後にこのメッセージSometimes Making Something Leads to Nothing(時に何かを作るということは何物にもならない)。不条理だ。



他にもひたすらポットの水をコップに入れ続けているアニメーションとか、数頭の羊を一列に引き連れて広場の塔の周りをぐるぐると歩き続ける映像とか、淡々と何事かを行っているのだけど何にもなっていない、何も残らず、何も達成されない、そういうイメージばかりが続く。不条理である。

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私が一番好きだったのは赤のフォルクスワーゲンが寂れた町の小さな丘を登ろうとしてスピードを上げるのだけど必ず坂の頂きにさしかかったところで減速してまたバックで下がってきてしまうというもの。フォルクスワーゲンはめげずに何度も何度も登ろうとする。が、ダメだ。登りきろうというところで必ず止まってしまいずるずると元居た地点に降りてきてしまう。リハーサル、と名付けられたこの作品、バックに流れるメキシカンなバンドの演奏がこの行ったり来たりと連動していて、坂にさしかかって盛り上がるバンド、そこで誰かが失敗、またやり直し、という構成になっている。もうこれが長いのだ。延々とやる。同じ行ったり来たりを何度も。アップテンポなバンド演奏も手伝ってもはや映像はコミカルでさえある。見ている人からも笑いがもれる。が、殆どの人は最後まで何も起こらなそうだと悟ると途中で部屋を出ていく。だってつまんないもの。

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とっさに思い浮かんだのはカフカの『城』。城の測量の仕事をする為に招かれたはずの男がすぐ先に見えている城になかなか辿りつけない。なんだか意味の分からない出来ごとに巻き込まれたりしながら理由も分からないまま最後まで城に行きつかない、という話。最後まで読んだんだっけ?(確かに読んだはずなのだけど)って思い出せないぐらい最後までクライマックスの無い、ただただ不条理に目的を完結出来ないまま終わる物語。主人公の男もそんな異常事態になぜか淡々とした様子で、ゆるゆるとまだ城を目指していて、それがまた歯がゆいのだ。

赤いフォルクスワーゲンもそう。なんでダメなのよ、なんであとちょっとのところで落ちちゃうのよ、もー。みたいな。淡々と、何かに向かっているのだけどどこにも行きつけない。何事も達成されない。『城』を読んだ時のあの無に近い読後感。でも鮮やかにのこる気持ちの悪い、どこか現実味のない町の景色。残像。

フォルクスワーゲンの映像の部屋を出てふと作品の解説を見る。もう一度うなる。どうやら人間世界の不条理を見せただけではないみたい。

‘Politics of Rehearsal is a metaphor for Mexico’s ambiguous affair with modernity in which it is forever approaching and yet always delaying the moment of consummation. The video looks to the origins of the ‘development’ discourse (in United States presidents Harry Truman’s inaugural address of 1949) and its impact since. In his speech Truman insisted that it is the Unites States’ responsibility to share its technological knowledge with economically ‘underdeveloped’ nations ’

1949年のトルーマンのスピーチは開発を勉強している人にとって特別な意味を持つ。(と思う。)このスピーチが‘development’と言う言葉を国家の発展を意味する言葉として使われた最初だとされているから。戦後、米国という超大国が米国と比べて’underdeveloped’な国を「開発する」という他動詞的な語彙が誕生したというのはなんとも象徴的だと思う。まさかそのトルーマン演説にこんなところで出くわすとは!

赤のフォルクスワーゲンはFrancisが拠点を置いているメキシコ、先進国に近づきつつ、いつも一歩手前で阻まれる、遅れを取る、そんな途上国の状態を象徴するものだった。

だけど、この人、ただシニカルなだけではなさそう。たくさんの映像作品と共に展示されていたラフなスケッチや走り書きにも似たメモの中にこんなメッセージを見つけた。

“Social Delay”
One could reflect on the delaying effect of the idea of hope. Faith is a means by which one introduces resignation in the present, as an investment in the promise of abstract future. This, of course, is the catholic trap par excellence, but it is no less true of any other human anticipation. Any undertaking requires to a certain extent a postponement of both desire and reward.

展示の紹介文の末尾には劇作家サミュエル・ベケット(この人も不条理劇で有名だったとか?)の言葉が引用されていた。

Ever tried. Ever failed. No matter. Try again, fail again, fail better.

永遠に坂を登りきらない赤のフォルクスワーゲン、というメタファーは必ずしも永遠ではないかもしれない。Sometimes Making Something Leads to Nothing、それでも、坂を上り続ける。リハーサルは続く。失敗してももう一回やる。次はましな失敗をする。いつか登り切る、と小さく希望を持ち続けるから。
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# by nanacorico0706 | 2011-06-02 06:24 | つれづれ

卒業しちゃった


卒業の5月はつくづく人とのご縁に感謝の1カ月。

パキスタンでお世話になったあったかいホストファミリーとの再会。
大好きな担当教授と名残惜しい最後のディスカッション。
パキスタンでのインターン仲間3人娘で将来を語り合う再会。
学校の仲良しグループで笑と涙の定例パーティー最終回。
商社時代の同期とボストン同期会。
いつも下ネタばっかり言って爆笑してたルームメートと涙のお別れ。
両親が卒業式の為に35年ぶりの渡米。

人生の価値は感動の量で決まると誰かが言っていた。私にとって感動は人との出会いで決まるような気がしている。これまでの人生で私と向き合ってくれた一人一人の人が私を作ってきてくれたと思う。これからの人生も、偶然に同じ時間と空間を共有するたくさんの人が私の人生そのものなのだと思う。

たくさんの素敵な出会いに感謝。そして再びめぐり会うことがあるから年を取るのは楽しい。再会を楽しみに、卒業、ありがとう。

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# by nanacorico0706 | 2011-05-30 03:17 | つれづれ

戦略的デカップリング


BOPにしてもインパクトインベストメントにしても、最近の市場機能を重視した貧困削減の手法のベースには「既存の経済システムはもっと貧しい人に開かれるべきだ」という考え方が有る。Inclusive Capitalismという言葉に象徴されるように、一部の豊かな人が属する資本主義システムに最貧困層も参加してもらおう、というのがBOP論者の倫理的コミットメントだと思う。

Inclusive、つまり貧しい人を既にあるシステムにInclude(包含)していく、取り込んでいく、参加してもらう、ということ。それによって貧しい人もグローバル経済の恩恵を受け、貧困を克服していく、ということ。

聞こえはいい。

が、貧困削減を掲げてInclusive Capitalismを語るとしたら一歩進んで問うべきは「どういった形でIncludeされるべきか?」だと思う。長期的な影響を考慮しない安易なマーケットへの統合は貧困層の生活を悪くするだけの場合だって大いにある。多国籍企業の工場で搾取労働に従事することがinclusiveか?先進国企業の売る遺伝子組み換え種子に一生依存しなければならないような生産性向上プロジェクトが本当に貧しい農家の生活を改善するか?BOPビジネスと称してモノを売ることが貧困層にとって最も好ましい市場への参加のカタチなのか?

グローバルなバリューチェーンが所与のものとなった今、Inclusive Capitalismが「聞こえがいい」だけで終わらない為には、如何に国際的な経済システムと繋がるか、と同時に如何にそこから「断絶するか」も実は重要なテーマなのではないかと思う。やみくもにInclusiveにするのではなく、きちんと価値を得られるところではカップリングし、そうではないところでは戦略的にデカップリングする。凸と凹を作る、ということが本当に貧困削減に寄与するグローバリゼーションのカタチなのではないかと思う。

というふうに思うに至ったのはマダガスカルの農家のケーススタディを読んだからなのだ。アフリカの農家とグローバルバリューチェーンというと、伝統的農法に基づいて複数の作物を育てる自給自足に近い生活から一種類のみの穀物を植えるキャッシュに依存した生活への移行によって、所得が増えると思いきや食糧の世界市場価格に翻弄されて余計に貧窮する、といった過去の苦い歴史のイメージが強い。グローバルマーケットへの完全な依存は逆に貧困層の生活の脆弱性を高めてしまう、という悪例。

翻ってこのマダガスカルのケーススタディは「うまく行くケースもあるよ」というもの。ざくっと言うとマダガスカルの小規模農家が生産した特殊な豆を欧米の高級食品会社向けに卸すというもの。品質管理や生産性向上などの技術やトレーニングはマダガスカルの輸出会社が提供、生産された豆は地元の市場価格よりも高く買い取られ、インフレ時には特別に価格も連動する、という処置をとった。この会社、立派。輸出会社の提供したコンポストを作る技術などは他の土地にも転用され自給用の食物の生産性も向上するなどの波及効果もあったとか。

面白かったのは輸出会社と契約を結んでいる小規模農家の殆どが家計で消費する為の食糧の生産を継続していること。高級な豆の為に割いている土地は数%程度であとは地元のマーケットへ売るお米や、自給自足に充てられている。つまり完全なマーケットへの依存はせず、ある意味多角化とリスク分散を行っている。高級豆の栽培で得られたキャッシュは収穫が減少する季節に食糧を得る為に使われ、この季節に激増する病気の減少につながる。

なんでこの会社が小規模農家をそんなに大事にするのかは論文からだと良く分からないが、貧困層にとって有益なカップリングの好例だと思う。逆に言えば、完全な市場への統合ではなく、部分的にデカップリングしている(自給自足も継続)点が重要なのではないか。

既存のシステムを良しとしてとりあえず大事なのはInclusionでしょ!という説と、既存のシステムを悪としてとにかく伝統的農村を守ってグローバル経済から隔絶すべし!という説の二項対立を超えて、グローバル経済と繋がるところと離れるところとを個別具体で戦略的に考えていくべきなのだと思う。
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# by nanacorico0706 | 2011-05-18 12:02 | 勉強

それでもなお

この数週間すごい頻度で飛び交っている東北支援のメールの一端にこんなものを見つけた。

●逆説の十ヶ条●

1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
  それでもなお、人を愛しなさい。

2 何か良いことをすれば、
  隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
  それでもなお、良いことをしなさい。

3 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。
  それでもなお、成功しなさい。

4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
  それでもなお、良いことをしなさい。

5 正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。
  それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。

6 最大の考えをもった最も大きな男女は、
  最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。
  それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていない。
  それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
  それでもなお、築きあげなさい。

9 人が本当に助けを必要としていても、
  実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
  それでもなお、人を助けなさい。

10 世界のために最善を尽くしても、
   その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
   それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。

ケント・キースさんと言う方の言葉で、マザーテレサもしばしば引用しておられたとのこと。3月11日以降を振り返るとこの10カ条のどれか一つでも心の琴線に触れる人が多いのではないかと思う。この震災にどういう形で、どういう距離感で、どんな立場にいて立ち向かっていたとしても。

卒業を2カ月後に控えた今、この「それでもなお」の精神をちゃんと心に刻もうと自分に強く言い聞かせている。大学院で過ごした2年間は「何が正しいか、何をすべきか」をひたすら考え、議論する時間だった。ここから先は現実の世界でそれを形にしなければならない。おそらく、これが現実ですよね・・・とげんなりしたり、ちくしょー、となったり、そんなことの繰り返しだと思う。なんかもう誰が悪いとか正しいとかじゃなく社会という壮大で複雑に絡み合った不条理の鉄壁に耐えがたい無力感を感じたりもするだろう。そういう時にちゃんと「それでもなお」と思えるような心持でいたい。心持でいて下さい、私。

会社を辞めて留学しようと決意した時は学びたい欲求から大学院に来たわけではなかった。開発の世界ですぐにでも実務に関わりたいけど知識も経験も無いし、まずは大学院行くしかない、みたいなある意味戦略的な理由で留学を決めた。大学院という二年間を通り抜けると、私の外側に知識やスキルがくっついて途上国で問題を解決する専門家が仕上がる、みたいな。だけど、結果的にはこの2年間学ぶことを大いに楽しんだ。スキルの習得よりも哲学した。外側じゃなくて内側に色々くっついた。本当に本当に有益で貴重で忘れられない経験になった。授業に出ながら胸が熱くなったり鳥肌が立ったり、なんてなかなかあることじゃない。成長した、という感覚じゃない。どちらかというともっと揺らいでしまったかも。でもそれでいい。

結局私は「開発」を仕事にしたいわけではないという想いに至った。今更、恥ずかしながら。というかそんな職業はないのだろう。人々が幸せである。社会が公平である。そういう大きなビジョンに向かって、小さな一つのピースを押したり引いたり叩いたり撫でてみたり壊したり作りなおしてみたりそういうことをする。失敗したり無駄だとおもったりすることが有っても「それでもなお」と思って小さな一つのピースに明日もまた向き合う。もう一度押してみる、引いてみる。諦めずに、失望せずに続けることだと思う。

「それでもなお」のフレーズですぐにピンと来たのがマックス・ウェーバーの『職業としての政治』の最後の一節。

「もしこの世の中で不可能ごとを目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、全く正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(中略)人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場から見て―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への天職を持つ。」

いや、政治家になりたいわけでは全くないのですが、政治学を勉強していた20歳の私がいたく感銘を受けて力いっぱい線を引いた岩波の文庫本の最後の一節が今でもまだ私を引きつけることがなんだか情けないような嬉しいような。

あと2カ月。新しいスタートがどこで、どんな形になろうとも、ちゃんとこの覚悟を忘れない。転んでも傷ついても、歩みを止めないこと。頑張れ、私。
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# by nanacorico0706 | 2011-04-02 01:36 | つれづれ


2年間の米国留学生活をゆるゆると綴ります・・・
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