旅の途中



祈り

祈るという行為をこんなに真面目にしたのは何年前だったか記憶が無い。布団に入ると文字通り手を合わせて、どうか少しでも多くの命が救われますように、と祈った。

そして、同じように世界中何億という人がこの1週間祈ってくれていたんだと思う。地震直後から友人からひっきりなしにかかってくる電話、メール、Facebookへの書き込み。大学の友人だけでなくパキスタンのホームステイ先の家族、ケニアにいる友人、シンガポールの元取引先、数えきれない人が日本の為に祈ってる、とメッセージをくれた。素直に感動した。人間がこんなにもあったかいということを再認識して。

1万人を超えると言われる犠牲者、食糧の届かない避難所で息を引き取っていく人、命の危険を冒しながら原発で作業を続ける人、もう想像しただけで胸がつまるような本当に辛い現実の中で、日本にいる人が示した人間の底強さは鮮烈だった。世を徹して徒歩で家を目指す途中、ベビーカーに道を空ける人々。2日ぶりに救出されたおじいちゃんが言った「また再建しましょう」の一言。お菓子を我慢して募金するチビッ子。定年を直前に控えて原発の作業に志願する父親。決して美しいだけじゃないことは分かってるけど、日本が、日本人が好きだな、と思った。

こんな時になんで海外なんかにいるんだろう。節電も献血もボランティアにも行けない、家族の感じている恐怖や不安も共有できない。もどかしさ。出来ることはホントに限られているけど大学で募金活動を始める。ボストンの学生を中心にものすごい速さで緊急支援のための枠組みが出来上がってて、すごい、と感心した。誰もが、日本の為に出来ることをしたい、とこんなにも主体的な衝動に駆られているのは初めて見たような気がする。

奇しくも震災の直前に開かれたボーゲル会のテーマは「30年後の日本のあるべき姿」。海外から見られているような美しくて礼儀正しい国というイメージを維持したい。やっぱり経済力は維持したい。教育のレベルはもっと上げるべきだ。アメリカと中国との架け橋になるべきだ、というような意見が出た後、参加者最年少の学部生がコメントした。「ここにいらっしゃる皆さんは日本で政府や一流企業に勤めている経験も学もある方々だと思います。でも僕の両親は和歌山で生まれて、育って、働いて、結婚して、今も和歌山に住んでいる普通の人です。そういう普通の日本人が30年後の日本に望むことは「平和」だと思います。今日と変わらない明日が来る、と言う意味での平和だと思います」と。

その数日後、今日と変わらない明日が来る、という平和が壊されてしまった。昨日と全く違う3月11日を迎えて、でも、日本の「普通の人たち」は立派だった。なんか、立派、という言葉がぴったりだと思うのだ。国を引っ張る一握りの人と言うよりは一般の市民がとても立派な国だ。

ゆっくり咀嚼しようと思っていた30年後の日本の問いは中に浮いてしまった。今はまだ明日を生き抜く命を一つでも救うことを考えるしかない。でも明日が分からなくなった今こそ30年後の日本と日本人は大丈夫だ、という自信が芽生えたような気がする。普通の市民として、まずは焦らず驕らず淡々と出来ることをする。今日も極東の小さな島に向かって祈っています。
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# by nanacorico0706 | 2011-03-19 10:39 | つれづれ

No name no life


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名前というものはすごく大事だということを最近考えている。もしくは名づけるという行為。

私の尊敬する叔母が良く若い母親である姪っ子たちに対して「キツイことを言う時やカッとなった時ほど、子供の名前は「ちゃん」付けで呼びなさい。ななこ!ではなく、ななちゃん、と呼び掛けた瞬間に少し怒りが和らいでちゃんと子供の心に届く叱り方が出来るから。」と語っていた。本当にそうかも、と思う。呼ぶほうも呼ばれるほうも、発せられた言葉に乗せられた、言葉を超えた様々なメッセージを受けとめているのだろう。

ほんのすこーしかじっただけですがソシュールという言語学者が名前というのは既に存在する概念に与えられるものではなく、名前をつけた時に初めてその概念が生まれるのだ、というようなことを言っていたとか。内田樹さんによるソシュールの解説からの引用。(この本超おススメです!)

言語活動とは「すでに文節されたもの」に名を与えるのではなく、満点の星を星座に分かつように、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。

唸った。

名前を与えるという行為が私たちの思考を決定し、概念の意味を形作り、それを固定化していく。意味を得た名前は、その概念を表すものとして一定の範囲内の人々に受け入れられ、客観化されていく。

名前について考え始めたきっかけは今書いている社会投資に関する修士論文。社会投資、という新しい試みの本質は何なのか、開発の文脈においてどんな可能性と限界を秘めているのか、というのが自分の関心。この問いに答える為に、去年授業で出会った制度論(Institutional Theories) のフレームワークを使って社会投資の実践を解剖してみよう、というところまで行きつく。制度論のフレームワークで重要とされている一つの要素が、あるものごとが社会においてどういう風に認知され、理解されているか、という観点。言語や名前というのはそれを読み解くもっとも重要なカギだ。

社会投資のアプローチで使われる「名前」たちは従来の開発手法から大きく変化している。寄付ではなく投資、受益者ではなく消費者、開発実務者ではなく投資マネージャー、ニーズではなく需要、地域のリーダーではなく社会企業家、社会貢献ではなくビジネス、etc…

毎日のルーティンに登場する言葉たちも、ポートフォリオ、パイプライン、レバレッジ、Due Diligence、IRR、IPO…..と、メインストリームの投資業界と大差ない。

例えばお金をある団体の元へ流す、という同じ行為だとしても、これまでそれをチャリティと呼んでいたのに対し、社会投資ではそれを投資と呼ぶ。中身は一緒、名前が違う。何が起こるか。新しい名前を与えられた概念、もしくは事象がむくむくと変質していくのではないか、ということ。名前がつくことでその名前を表象する観念が私たちの思考の中に生まれ、その観念を体現するように私たちの行為が決定されていくのではないかと思う。

最も貧しい人に商品が届かないのは納得いかん、と言う私にその商品を作っている「社会企業家」さんは言った。「私たちは人助けをしているのではない、『ビジネス』をしているのだ。儲けを出さなきゃ死ぬんだから出来ることと出来ないことがある。」 ソーシャル「ビジネス」、という名前を得た瞬間に私たちの思考はビジネスというものにくっついた観念を引っ張り出して新しいこの試みを具象化していく。そこには法的に営利企業、という無機質で構造的な事実だけでなく、社長さんの頭のなかで構築された「営利企業というのはこういうものだ、だから私はその規範にそって行動するのが当然」という解釈と認識がある。ソーシャルビジネスという言葉は新しい試みに与えられた名前である以上に、無数の人々の解釈、再解釈、によって変化しつつ固定化されていくダイナミックな概念なのだと思う。

確立した新しい投資の実践に「社会投資」という名前が与えられたのではなく、新しい名前がついたことによってその概念や観念が私たちの思考を支配し始める。貧しい人たちを「消費者」と呼ぶこと、投資先の社会企業を「ポートフォリオ」と呼ぶこと、痛みを伴った何かの不足を「満たされていない需要」と捉えること。こういった言葉の再構成が実は言葉遊びではなく、私たちの思考と行動を決定していくのだと思う。

だとしたら、名前に用心したい。どう呼ぶか、どう呼んでしまっているか、どうして私たちはそう呼んでいるのか。そして、その名前を使うことによって私たちの思考と行動がどう変化するのか。

尊敬する叔母が「ちゃん」付けで私を叱ってくれたように、人と人の距離が離れるよりは近づくような呼び名で満たしたい。それが従来の投資ではなく社会投資、なるものに要請されていることだと思うから。
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# by nanacorico0706 | 2011-02-25 11:48 | 勉強

DEAD AID と DEAD RACE


a0158818_13352481.jpgDead Aidで有名なDambisa Moyoの講演を聞きに行った。
開発援助はアフリカの経済の根本的問題を解決しないばかりか、経済成長を害している。というのがその主張。エコノミストらしく数字をちりばめながらの援助ダメダメ議論は説得力大。経済活動のインセンティブを与えないままお金を投入するだけの援助はインフレを招き、政府高官の腐敗を定着させ、民主主義の土台を壊し、途上国の債務を増やしただけで何もイイことはなかった。と。納得。
会場の皆さん、アフリカの首相や大統領の名前を何人言えますか?アフリカで貧困削減を掲げてお金をばらまくセレブの名前の方が多く知っていませんか?私はこの状況が許し難い、という言葉は切実。

が、ソリューションは?という段になって彼女が語ったのは貿易と投資の促進、とにかくマーケットを機能させよ、というもの。成長、成長、成長、そこから税収が生まれ、教育も、貧困も、保健も、援助に頼らず私たちの政府が自立して提供していけるようになる。政府は援助資金を一切断ち、市場が機能する為の最低限のインフラを整えるべし、と。

・・・うーん、結局彼女が痛烈に批判した世銀とIMFが80年代からやっていた構造調整と同じ議論。彼女はしきりに中国を引き合いに出して、如何に市場開放が今の急成長に繋がったかを強調していた。アフリカの国々も中国を見習って、市場を開放し、どんどん貿易して、外資を呼び込んで、徐々にグローバル経済の階段を上がっていくべきなのだ、と。

この、お決まりの世界観。アメリカをトップとしたGDPで構成された経済ピラミッド。もしくは1位から最下位まで経済的な豊かさに沿って積み上げられたまっすぐな階段。途上国、という言葉が示す通り、彼らはその階段を上っていく途上にある、という世界観。

あまり多く語られないのは階段を一段上るということはどこかの国が一段降りなきゃいけない、ということだと思う。グローバル経済の競争に参加するということは、もうものすごいスピードで追い上げたり追い越されたり、勝ったり負けたり、熾烈な戦いをずーっと続けることだと思う。ずーっと。つまり、この競争のプレッシャーは開発途上にある国だけが感じているのではない。70年代のアメリカが日本の製造業の生産性に負けて危機に陥ったり、今度は90年代以降の日本が中国の製造業の生産性に負けてすっかり元気無くなっちゃったり。階段を上りきった国々が余裕の面持ちで途上にある国を迎え入れる、なんて構図は存在しないのだ。

このエンドレスな競争の中で、途上国もみんなどんどん成長して豊かになりましょう、と言えるとすれば、最終的に世界経済は一体どういう姿になるんだろう。アフリカの国々がGDPでいつか日本とアメリカをやっつけて世界のトップに躍り出ればいいのか?

本当は世界はそんな単純なピラミッドなんかで成り立っちゃいない。経済大国アメリカは何十万人というホームレスを抱える貧困大国でもある。アジアで最も豊かになった日本は自殺率でも世界トップクラスだ。成長、成長、成長。それが本当に答えなのだろうか?貿易して、市場を開放して、そうすれば日本みたいになれますよ?なんて言えるのか?どちらかというと日本みたいになっちゃいますが・・・だ。

そもそも、全ての途上国が今の先進国並みの生活に追いつくには地球があと4~5つは必要とも言われている。先進国を目指せ!は、もはや現実的な開発観ではない。代替案は何か?を探っているのが今期取っているアフリカの経済開発とグローバリゼーション、の授業。グローバルではなくてリージョナル経済の可能性、Embedded Economy、と呼ばれる伝統的な経済システムと市場経済の融合、そしてSocial & Local Entrepreneurship。GDPだけでは語れない、眠っている可能性や小さな成功に光を当てていきたい。
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# by nanacorico0706 | 2011-02-16 13:40 | 勉強

21世紀の共同体


むかしの日本にあったような伝統的な共同体はもう二度と戻らないんだよ。

と、先日友人と話していた時に言われてはっとした。彼はアートを通してコミュニティを活性化させたいという想いを持って仕事をしていて、何やら「コミュニティ」なるものについて語り合っていたのだ。が、途中で2人が持ってる「コミュニティ」のイメージがズレていることに気づく。そして彼の上の一言。伝統社会に基づいたコミュニティを復活させることはもう出来ない。全く新しいカタチのコミュニティを創り出していかなきゃダメなんだ。と。

私は未だに、高度消費社会を経て人間は伝統的な共同体の価値に円を描くように戻っていくのではないか、そうなるべきなのではないか、という固定観念がどこかにこびりついているのだと思う。

彼の言葉がストン、と落ちた。そりゃそうですよね。

大学院に来てから、昔の人間社会はなんてステキだったんだろーみたいな態度に傾いていたんだと思う。文化人類学の議論に触れることが多く、贈与と返礼に基づいた共存社会に対する美しい幻想がしみこんでいった。でも、前近代の社会のカタチをひも解くことの目的は、歴史を後退してそこに「戻る」ことを意味するのではない。私たちが常識だと思っている今の社会のカタチを疑い、一度その常識を壊し、またそこから新たに創り上げていくことが本来。

規範やモラルに基づいた伝統社会か、理性と利害に基づいた近代社会か、という二者択一ではないところに答えを見出そうとするダイナミックな思考態度が本当は必要とされているのだと思う。

新古典派経済学の始祖とも言われるマーシャルは近代社会の特徴は競争ではなくAssociation(協働・提携)にある、と言っていた。このAssociationは伝統社会における慣習に基づくものではなく、自由な個人が思慮深い協議に基づいて創り上げるものだ、と。市場と法律を軸に個人が自己利益を追求する競争社会でも、慣習と権威が個を支配する伝統社会でもなく、倫理と対話が支える協調社会のカタチを作っていくべきだ、というのが彼の主張だったのだと思う。

マーシャルの理念と通じる考え方をつい先日たまたま読み返していたボルスタインの『How to Change the World』に見つけた。ガンディーに強く影響を受けたらしいアショカの創設者ビル・ドレイトン曰く、「Gandhi’s greatest insight was recognizing early in the twentieth century that a new type of ethics was emerging in the world – an ethics grounded not in rules, but in empathy.」

ガンディーが夢見た「共感」に基づく21世紀の社会のカタチってどうあるべきか、を考えなきゃいけないんだと思う。社会のカタチを作るのは人々の価値観であり、人々の価値観を形成するのは社会のカタチでもある。

コミュニティについて語ってくれた友人のように、小さく、でも必死で行動している人がいる。大きな変化はいつも辺境からやってくる。早く走りだしたい。
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# by nanacorico0706 | 2011-01-30 12:22 | つれづれ

Building Social Business ムハマド・ユヌス


a0158818_1341552.jpgグラミンバンクのユヌスさんの最新本。‘New Kind of Capitalism…’という副題にひかれて読んでみた。最近新しいタイプの資本主義、という売り文句にめっきり弱い。それが自分自身最も気になっているテーマだからだろう。

以下面白かったことをメモ。

配当をしない営利事業=Social Business
ソーシャルビジネスというと一般名詞的に使われがちな最近だけど、ユヌスさんはこの本でソーシャルビジネスを’non-loss, non-dividend company’と定義している。利益は出すけどその利益は基本的に株主や投資家には分配しないというもの。余剰利益はビジネス拡大の為の再投資、もしくは万が一の為の蓄えとして残しておく。このアイディア、好き。

ソーシャルビジネス、というとダブルボトムラインと呼ばれるように経済的利益と社会的利益の両者を追求する、というのが一般的。対してユヌスさんの言ってるソーシャルビジネスは少し違う。ダブルボトムラインでいう経済的利益、とは事業への投資家にもリターンを返していく、という暗黙の了解がある。一つ前のブログで書いたように投資家の期待するリターンを出せるビジネスだということが更なる投資を呼んでビジネスを拡大し、ひいてはソーシャルインパクトも拡大する、というのがダブルボトムラインのロジックだ。これに対してユヌスさんが推奨するソーシャルビジネスでは利益は誰かに帰属する所有物ではなく、会社の中に還流し将来のビジネスの為に使われる。

彼がダブルボトムラインを支持しない理由は2つ。

1.貧困層を対象に利益を追求するのは倫理的に受け入れられない
ここ、言い切るところが気持ちがいいな。私がパキスタンで抱えていた煮え切らなさも結局これなんだと思う。工事現場で汗水たらして働いてるこのお父さんが身を切る想いでおカネを払って買う住宅の利益がなーんでマンハッタンの投資マネージャーのとこに戻らなきゃいけないわけ?!みたいな。感情的な議論は一蹴されるので論理武装をしなければいけないわけだが、倫理的に受け入れがたい、というのは素直に共感。

2.長期的に、もしくは難しい局面に陥った時、経済的利益が社会的利益に優先する結果に陥りやすい。「時間が経つにつれて、社会的なゴールは徐々に重要性を失い、一方で利益を上げることの必要性がより深く会社の風土にしみこんでいくものだ。」と。

ソーシャルビジネスを支える法的スキーム
上記のような特徴を維持するのに最適な法的仕組は何か?現状では営利目的の会社形態が取られることが多いがこれはあまり適さない。会社はそもそも株主の利益を最大化するのが法的な義務。社会的利益を優先させたり、市場よりも高い賃金を払ったりすると理論上は株主から訴えられてもおかしくない。将来的にはソーシャルビジネスを既定・規制する独立の法律を作るべきだと主張。同意。ミッションドリフトと呼ばれる当初の会社としての社会的使命がそれて行くことを防ぐためにはその為の構造的な仕組が必要だと思う。

その他いくつか最近の先進的な法的スキームが紹介されていたが面白かったのが英国発のCommunity Interest Company(CIC)という新たな法人形態。公益に資することが認定された会社のみ取ることの出来る新しい形態で、最大の特徴は所有する資産の分配に制限がかかるアセットロックと呼ばれる規制だろう。CICの所有する資産は余剰利益も含め直接コミュニティに還元するか、もしくは再投資や担保として事業の拡大の為に使われなければならない。が、配当も可能。ただし株式辺りの配当率はイギリスの中央銀行の貸出レート+5%まで、また会社の利益全体の35%までしか配当出来ない。

こういう規制のある会社、もっともっと主流になっていったらいいのに、と思う。ソーシャルビジネスの議論ってソーシャルリターンをどう見るか、ってところに焦点があたりがちだけど経済的リターンはノータッチ、ということが多い。そもそも経済的リターンは何のためにあるのか?誰が利益を受け取る権利を持っているか?というところの議論がちゃんとされていないような。株主の期待にこたえる為の利益と会社の存続の為の利益ではかなり意味合いが変わってくる。私はダブルボトムラインの2つの柱は基本的にトレードオフの関係にあると思っているので経済的リターンにキャップを設けるのはソーシャルビジネスにとってすごく大事なことだと思う。

もうひとつ面白かったのは彼が以前から主張しているソーシャルビジネスの為の株式上場市場の話。ユヌスさんのいうソーシャルビジネスは配当を出せないわけだから、この市場への投資家が得る経済的リターンはゼロ。元本は回収出来たとしてもそれ以上の利益を得ることはなし。万が一株式の売買で差益が出た場合も同じ市場内で再投資しなきゃいけない。面白い。そんな株式市場誰も投資しないでしょ、というもっともらしい反応もありそうだけど、私はそうでもないと思う。究極的な質問は人間はそんなに利益志向なのか?ということ。次へ。

多面的な価値を持った人間
全体的に具体的なビジネスの話に終始しているものの、こういったことを主張している根っこにあるのはユヌスさんが信じる人間の価値観の多面性のようだ。Multidimensional peopleという言葉を使ってone-dimensional human beingsと対置している。自己の利益の極大化が生来の人間の性質ではない。’Success will be measured primarily by the contribution one makes to the well-being of the world’. 合理的に自己利益を追求する人間像を前提とするとフリーマーケットに任せるか政府による規制と再分配に望みをかけるか、という二者択一になる。が、ユヌスさん曰くもし多面的な価値を内包した人々で構成される社会があれば自発的な再分配(self-induced redistribution)が起こるという。お金持ちが政府から高い税金をかけられて再分配を強要されるのではなく、自発的に配当の無い会社に投資したり、給料が減ってもソーシャルビジネスに従事するようになる、ということだろう。利益の全く出ない上場株式市場、なんてちょっと非現実的にも思えるアイディアの奥には人間の本性って何だろう、という問いがある。

去年、大好きだった経済地理学の授業はアダムスミスの『国富論』でスタートし歴史を追って現代の経済学の論説まで辿りついたあと最後の授業は再びアダムスミス、今度は『道徳感情論』。ここでアダムスミスは社会正義について多く語っていて、最終的にそれを担保するものは国家という強制力を持ったシステムだけではなく、人間の倫理観だと言っていたと思う。経済における道徳や倫理の役割とは何か。今だから大事な問いなのだと思う。社会主義の可能性が消えてから20年、貧困や環境問題や金融危機や今の資本主義システムも危うい。倫理観や道徳や人間の善意や家族や社会に対する愛情、そういった経済の文脈から排除されてきた要素を見つめなおす地点に来ているのではないかと思う。
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# by nanacorico0706 | 2011-01-15 01:39 | 読書

明けましておめでとうございます


と言うにはもはや遅すぎる感もありますが・・・
そして今更2010年を振り返ってみたりする印象に残った出来事ランキング。

1位はやはりアキュメンファンドパキスタンでのインターン。
これがきっかけでBOP、ソーシャルビジネス、CSR....などなどの広ーい興味分野から社会的投資、というテーマに修論のトピックを絞り込めた。3カ月の滞在中、充実!というよりはむしろモヤモヤしてウズウズしてグルグルになって実は消化不良で帰ってきたことが深く考えるきっかけにもなったように思う。今思えばあれで良かったのだ。

2位は出会いと別れ。10月、大事な人との別れがあって、糸の切れた凧のようになった。どこへでも行けるという軽さと、地面につながった確かなものが無い危うさと、両方受け止めてもっと強くしなやかになろうと思った。不思議なもので別れというのはいつも出会いを一緒に連れてくる。たくさんのステキな出会いに感謝。

3位は経済地理学の授業。
授業の内容も他の学生(みんな博士課程)のレベルも格段に高くて正直すっごくキツかった。けど、めちゃくちゃ楽しかった。毎週500ページぐらいのリーディングがもうすごく面白くて。貧困の問題と向き合った時に自分はやはり経済的な意味での貧困に興味があるのだということ、経済が社会において持つ意味、人間の幸福において持つ意味、に興味があるのだということ、を改めて気付かせてくれ、深く考えさせてくれた授業だった。

2011年はいよいよ卒業!就職!信じられない・・・
一体どこで何をしているのだろうか。自分に正直でありたいと思う。人にどう思われるか、を気にしてしまう弱い私だけど、本当に私が心の底から欲するものは何か、どんな人間としてどう生きて行きたいかにきちんと耳を傾けられるようにする。それが今年のチャレンジ。

大学時代に好きだった教授が川の上に掛っている橋に腕一本だけでしがみついている夢をよく見る、そういう心境で学問に当たっていると思う、と笑い話のように言っていた。それ以来そのイメージがずっと頭にある。人生は高みに向かって努力していく、というよりは何かにしがみついているようなものなのかも、と思う。しがみついた手を離してしまうものは常に自分であって他ではない。もういいかな、という囁きであって突風ではない。まだ、しがみついていたいと思う。涼しい顔をして一生しがみついていきたいと思う。

新しい年をこんなにワクワクした気持ちで迎えられる自分は幸せだ。いい年にしよう。そして世界中の人みんなが少しでもワクワクできますように!

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# by nanacorico0706 | 2011-01-12 07:54 | つれづれ

コミュニティベースの社会投資ファンドを作れないか、と妄想している。

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コミュニティベースの社会投資ファンドを作れないか、と妄想している。今のインパクトインべスティングは基本的に先進国でファンドを作ってお金を調達して、世界中の社会企業に投資して、投資資金+利益が先進国のファンドに戻ってくる、という形。この先進国→途上国⇒先進国のお金の流れをローカルでグルグル回る、に出来ないか、というのが妄想。

アキュメンでインターンをしてたとき腑に落ちなかったのが投資資金はともかく、そこそこ高いリターンもニューヨーク本部へ戻っていくことだった。5年間で投資IRR18%前後、という投資があって、まあパキスタンというカントリーリスクとベンチャーってことを考慮すれば決して高くないけど、決して低くもないぞ、という印象。これだけの利益がごっそりアメリカに戻っていく。

何が腑に落ちなかったというと。

1.利益率高くするほど消費者価格が高くなりがち。住宅事業においては明らかに相関性があった。事業計画の時点でIRR○%、と織り込むわけなので、この利益率を達成できるような価格設定、コスト調整が課される。普通のマーケットで戦っている住宅事業者だったら当たり前に住宅の市場価格との兼ね合いでキャッシュフローを作っていくわけだが、BOPビジネスはそもそもマーケット価格、なんてものはない。安価に出来れば出来るほど貧しい人に届く。どこまで価格を下げるかは事業者の気合いとコミットメントだ。だからこそ、IRRゼロだったらもっともっと安くできて、もっともっと貧しい人にもリーチできるのに・・・と歯がゆい思い。

そもそもなぜアキュメンが「そこそこ」の利益率を投資先に求めるのか。ベースラインとしてあるのは、投資先の社会企業にゆくゆくは「Patient Capital」ではなく、従来の投資家に投資してもらえるようになってほしい、という方針。アキュメンの出すお金はスタートアップの支援段階のみを前提としていて、事業が軌道に乗ったらマーケットレベルの利益率を求めてくる投資家からお金を調達する、というのが理想型なのだ。となるとマーケットからあまりにも乖離した利益率では投資出来ない。願わくばマーケットレベルと同等の利益率で投資して、通常の投資家の呼び水としたい、という想いもある。結果、出来る限り高めの利益率を設定しようというインセンティブも働く。

2.現地でお金が循環しない。立ち上げたばかりの社会企業が一生懸命創り出した利益をもし自国内で、もしくは地元の経済に還してあげることができたら、もっと経済効果出るんじゃないか、と思った。社会投資なのだからもちろんアキュメンに返った利益はどこかで違う社会企業の為に使われる、それは素晴らしい。ただ、お金の流れだけ見ると多国籍企業の対外投資とあまり変わらなくて、投資先のローカルな経済へのインパクトが限られている。



もし、一定の大きさのコミュニティ内で社会企業に投資するファンドを作って、出資先企業は毎年税後利益の最低半分をファンドにプールすることにしたらどうだろうか?参加企業は、新規投資のニーズがあればファンド内で決めた低い利率でファンドからお金を借りることができる。インフラ整備や人材育成のような参加企業全体の利益になるプロジェクトにも資金拠出出来るようにすれば投資の効率も上がる。もちろん、最初の最初は外部からの立ち上げ資金援助が必要だろうけど一度循環し始めれば追加で外部資金の投入は要らなくなる。マーケットレベルの利益率を求める投資家におカネを返す必要が無いのでその分商品やサービスの価格を抑えられる。投資資金も生み出された利益も地元の経済に循環していく。

根源的には、先進国主導で社会投資のフレームワーク作りが進んでいる現状に違和感たっぷり、なのだ。ごく一部のImpact Investors達が投資指標を開発したり、ファンドスキームを考えたり、投資先を選んだり。重要なステークホルダーであるはずのおカネの受け手である社会企業、末端の受益者である途上国のコミュニティは一切議論に参加出来ない。寄付ではなく投資を、なんて聞こえはいいが結局先進国のおカネへの依存という意味では両者大差無いのではないか。現地の人が立ち上げて現地の人がルールを決めて、現地の人が運用する社会投資ファンド、出来ないだろうか?
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# by nanacorico0706 | 2010-12-22 13:48 | つれづれ

ボーゲル会とマーケットと私


今年からボストンで毎月開かれているボーゲル会という勉強会に出席している。Japan as No1というアメリカを追い越す勢いだった日本を書いたベストセラーで知られるハーバードの社会学の教授、ボーゲル先生を囲んでボストン留学中の学生が将来の日本について語る、という伝統ある勉強会。学生、といっても大手の企業から派遣されているビジネスマンや省庁から派遣されている若手の国家公務員が多く、同年代から少し上のある程度社会経験を積まれた方々。昨日参加した会で個人的に「マーケット」の機能について考えさせられたので振り返りを書こうと思う。

テーマはエネルギー安全保障。資源を持たない国日本が如何にエネルギーを安定的に調達してくるか。大枠ではオイルショック以来石油依存度を減らしていく、というのが政府の方針で、石炭や原子力、リニューアブルエナジーなど色々試みられてきた数十年。とはいえ石油は今でも4割程度のエネルギー源で今後も輸入を続けることは避けられない。一方で、中国やインドの成長によって原油の需要は高まる一方、原油価格はあと25年の間に倍になると推定されている。さあ大変!どうする日本!というのがざっくりした文脈。

提案をしてみた。オイルって人類共通の生命線みたいなもので、同じようなエネルギー安全保障の問題に世界各国が直面しているんだったら思い切ってマーケットで価格管理するのはやめて国際的に安定供給をする仕組を作ったらいいんじゃないでしょうか?

ま、多少ぶっとんだ考え方だし「そうですね!」なんて答えを期待してたわけではない。そもそも発言し始めた時点で会場に広がる苦笑。

が、ちょっとびっくりしたのはゲスト参加されていた日本を代表する経済学者の先生に言われたこと。「そういうマーケットの機能を疑問視するような発言は非常に危険ですね。戦時の統制経済みたいになってしまう。きちんと経済学を勉強していないとこういうことになる」といったような趣旨。別にマーケットの機能を全面否定していたわけではなく、原油のような公共性の高い財は完全に市場を自由化するのは宜しくないのでは、と言いたかったのだが、「危険」という強い表現で諭されたことに少し面食らった。フリーマーケットへの警鐘は特に金融危機以来アメリカの経済学者からも聞かれるし、マーケットは万能ではない、という考え方は主流とは言わないまでも特に驚かれることもないと思っていたが違うらしい。

重ねて他の方からも諭される。「必要としている人のところに最適にモノを配分するのがマーケットの機能ですからね。それを無視しちゃいけませんね」と。重要と供給を通じた価格メカニズムによって市場が自然に財の適切な配分をしてくれる、というのが経済学の基本。だけど、「必要としている人のところにモノを配分」するというはちょっと語弊がある。マーケットが本当に「必要としている人のところにモノを適切に届けてくれる」のなら、最もエネルギーを必要としている貧しい国々にどうして届いてないのか。答えは簡単で、彼らは買うお金がないからだ。マーケットは必要としている人にモノを配分するのではない。必要としていて且つ「買う力が有る」ひとのところに配分するだけだ。「ニーズ」と「需要」は違う。どれだけ途上国にneeds とwantsがあろうとも、オイルの世界市場に参加出来るだけの購買力が無い国が多いのだ。彼らの「ニーズ」はずっと「需要」にカウントしてもらえない。

先ほどの経済学の先生は悪気なくこの事実を認めた。「確かにマーケットはお金の入ったポケットの方に動きますからね、お金持ちが得をして貧しい人が苦しむ、ということはある。だけどマーケットを否定しちゃいかん。それは危険な考えです」と。

ああ、こんなにも堂々と貧困が是認されるのか。ナイーブかもしれません。でもちょっとショックだったなー。メインストリームの経済学者だったら、こういった考えはきっと特別じゃないんだろうな。マーケットに参加出来ない貧しい人は国が福祉で面倒見るんです、という正当化もあるだろう。じゃ、高騰するオイルマーケットに参加できない最貧困国はどうすればいいのだろう。世銀が?国連が?そういった機関が戦後60年介入し続けて何も変わっていないのが今の途上国の現状だ。

修論の担当教授がこの大学はリベラルの天国みたいなところだ、と言っていた意味が分かる気がする。大学を一歩出れば全く違う世界観を持っている人が溢れているのだ。当たり前ですね。

でも無力感を感じてはいけない。自分の考え方を意固地になって守る必要はないけれど、スタンスを持つということは大事。そして、倫理的なコミットメントは無くしちゃいけない。経済はお金持ちをお金持ちにするだけのシステムではいけないのだ。もっと勉強しよう。もっと行動もしよう。おかしい、と思うものとまっすぐに向き合っていく、ちゃんと戦っていく。
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# by nanacorico0706 | 2010-12-01 12:21 | つれづれ

原丈人『新しい資本主義』


原丈人さんの『新しい資本主義』、読了。a0158818_072862.jpgソーシャルインベストメントについてずっと考えている今日この頃。社会的投資、というとなんだかふわっと社会貢献的なイメージあるけど、結局本質は(少なくとも今のところ)「金融業」であると思う。「金融」の果たす役割って何だろうということのヒントになることも多く、さらっと読んだわりにインスピレーションが多かったので備忘録。

「金融は本来脇役」
当り前の事実だけどそう捉えられていなかったのがここ何年かの風潮だったと思う。金融は「あくまで縁の下の力持ちであって主役や起業家であり企業人」「産業の中心にはなりえない金融業が我が物顔でこれほどまでバブルによって拡大してしまった」。ソーシャルインベストメントは「業」としてわがもの顔バブルにならないか?
2007年のヘッジファンド上位10人の個人所得を合計するとトヨタの2007年度純利益を上回る額だった、という話は衝撃的。気持ち悪い。

「株主目線の経営指標」
IRRやROEなど、短期的な株主利益を測るのに便利な指標がビジネス界ではスタンダード。社会人になった時には既に常識として叩き込まれたので疑問に思うこと無く受け入れていた。指標ってどこか科学的なものという先入観があるものでどういう歴史的・社会的背景があってそういう指標が主流になったのか、というところを意識することって少ない。でも指標もシンボルであり、意味であり、価値判断の固まり。IRRはソーシャルインベストメントでも普通に使われているけど、どうなんだろうか。投資資金の回収は早ければ早いほどいい、という固定観念を刷り込んでないだろうか?

「内部留保を大事に」
内部留保の配当による吐き出しのプレッシャーが長期視点の研究開発を阻害してきた、という。この問題、BOP向け消費者ビジネスの文脈で考えると価格に大きく影響すると思っている。BOP向け商品の難関の一つは「低価格化」だけど、マーケットレベルの株主利益・配当を念頭に置いて事業モデルを作ると必然的にマージンが増えて価格が上がる。株主なんていない方がいいんじゃないか、とさえ思う。株主がいなければ何かあったときの保険としてうすーく内部留保を確保するだけで良くて、その分ギリギリまで価格を下げられる。アキュメンファンドのような社会的投資家の回収目標期間は5~7年。これって本当に長期か?そもそも投資先がきちんとサステナブルになっているのだったら回収しないで半永久的にそのまま回せばいいのだし、投資先の会社内で内部留保をどんどん再投資すれば事業のスケールは大きくなっていく。なぜ回収する必要があるんだろう?

「新しい株式会社」
原さんが手掛けているBracNetでは利益の40%を教育・医療といった公益事業に支出できるようになっているという。日本でも稼いだお金の全部、または半分くらいまでは公益のために使えるような株式会社を作れないか、と考えているそう。
利益は本来目的ではなくてただの結果だと思う。企業が行う経済活動の目的は例えば食糧の提供とか、インフラの提供とか、幸せの提供とか、そういうところにあるわけで、それを実行した結果残るものが利益であって、どれだけ残るかはそんなに大事じゃないはず。ドラッカーの言葉を借りれば利益は手段。将来に亘って幸せの提供という会社の使命を果たす為に、最低限倒産しちゃいけない、その為の手段。
「手段」であるはずの利益を「目的」とした投資家が参入すると本来の事業目的と別のベクトルが働く。厄介なのは彼らが「Owner」であることだと思う。株主というのは法的に会社の所有者なのだ。そうなると力関係は構造的には所有者が上。利益の配分にもこの構造が大きく影響する。ソーシャルインベストメントの現状のアプローチは「投資目的」を「経済的利益」だけではなく、「公益」も含めて考える人たちを増やしていこうというもの。ただし「投資家」「Owner」というステータスに変わりはなく、構造上の所有形態はそのまま。現状では「通常の投資家みたいな短期的利益は要求しませんよ」という個々人の倫理的コミットメントだけで法律上の規制もない。どの程度が高い利益でどの程度が短期的なのかは非常に曖昧。人々の投資に対する価値観が変わること、倫理観をマーケットに組み込むことは大事だと思うけど、その価値観を反映した形でマーケットの構造やルール自体を変えることも平行して必要と思う。


「全ての企業は中小企業になっていく」
想像性や柔軟性を保つためには企業のサイズは大き過ぎちゃダメだ、というお話。シュンペーターの主張とだぶる気がして興味深かった。ちょっと視点は違うが、利益追求型投資家の話に戻って、中小企業化をするというのは会社の自立性を保つことにもなると思う。もっというと、投資家、いらなくなるのではないかと。例えば税後利益の全部をコミュニティの共有ファンドに寄付して、プールしたお金から市場よりだいぶ安い金利で借り入れが出来るようにしたら投資家なんて呼び込まなくても継続的に事業を回していけるのではないか。立ち上げ資金は公的援助が必要かもしれないけど、その後は参加企業の合意で採算が取れるように利率を管理していけば、サステナブルになるのではないかと思う。それだと事業の規模拡大に限界がある、大企業の規模の経済に対抗できない、という反駁もありそうだが、原さん理論的には大企業ほど柔軟性を失って滅びて行く、全ての企業は中小企業化すべし、ということ。

ざっくりしたアイディアを述べている本ではあるけれど、興味のあるトピックが多く色々と刺激を受けた。公益資本主義、色んなところで議論されているみたいなので追ってみたい。
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# by nanacorico0706 | 2010-11-23 00:10 | 読書

分からない、を大事にする


つい先日ある方がTwitterで「肯定と否定の間に『分からない』、という淡々とした態度がある」ということをつぶやかれていて、なるほど、と思った。

というのも、少し前にある非営利団体に所属されている人とお話していた時から気になっていたことがあったのだ。古くて大きな団体で新しい事業を立ち上げられたその方は、まず部長に提案を持っていった。

部長「うーん、面白そうだけど俺よく分からないから理事長に相談してみよう」

理事長に企画書を持っていく。

理事長「うーん、新奇性があっていいけどイマイチ分からないから代表のとこ持っていっちゃおう」

マジ?!という感じで戸惑いつつも団体のトップにまで話が行ったところ代表の方すごく気に入っちゃう。新奇事業実現。

という話。聞きながら、自分で判断を下そうとしない、典型的な日本的意思決定ね・・・という想いと、「分からん」と素直に言えちゃう潔さ、すごいかも、そして部下としてはそういう人有難いかも、とも思った。人間どうしても理解できない⇒否定。となりがちだから。

そして最初にあげたつぶやきを発見。否定と肯定の間に有る「分からない」という淡々とした態度。それは決して悪いことではない。もちろん最終的には決断をしなきゃいけないことばかりだけど、分からないと認めることは分かった気にならないということでもある。分からないと認めることで勉強したり、相談したり、考えたりしてそのトピックと向き合い続けることになる。この淡々とした営み、実はすごく大事なのではないかと思ったのです。

たまに、迷いなく生きている(ように見える)人が羨ましくなる。これが正しい、とはっきり軸を持っている人。自分のやっていることは天職だ、と胸をはって言える人。そういう人の言葉には力が有り、人を説得するオーラがある。自分はいつも何が正しいのか迷ってばかりいるのでそういう人がすごく羨ましい。

でも、分からない、ということに焦りを感じなくてもいいのかもしれない、と思った。むしろ、「分からない」という感覚を大事にしていこうとも思う。白黒はっきりしなきゃいけないことも多いけれど、自分が向かっている大きな「?」についてはそんなに焦って答えを出さなくていいのだ。白にも見えれば黒にも見えるし・・・・もう分からん!という混乱した気持ちを淡々と受け止めて行こうと思う。そして考え続けようと思う。

迷いなく生きている(ように見える)人も、実はいつもこういう不安感と戦っているのかもしれない、と思ったのは、アキュメンファンドのジャクリーンさんからメールをもらった時だ。BOP向けの水ビジネスはただでさえ何もしない政府をますます「やんなくていいや」と思わせてしまうのではないか?という少々批判的な問題提起に対して、真っ先に返信をくれたのがなんと代表のジャクリーンさんだった。アキュメンとして考え続けなきゃいけない問題だと思ってます、みんな意見出して!と。白でも黒でもなくて、みんなで考えて行きたい、という答え。

公の場ではかなりポジティブで、まっすぐで、キラキラで、ソーシャルビジネスのカリスマ!みたいなキャラだけど、ああ、実はすごく色んなことを迷ったり自問しながらトップをやっているのだろうな、とその時になんとなく感じた。そしてそのスペースを保ちながら行動をし続けていること、すごいことだと思った。

「分からない」と思ったまま行動出来なくなってはいけないけれど、分かった気になるよりは、分からないことと対峙し続けていくべきなのだろうと思う。
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# by nanacorico0706 | 2010-11-08 07:37 | つれづれ


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