旅の途中



物乞いの人にお金をあげますか?


カンボジアの地を初めて踏んだ20歳の私が自分に問いかけたこの質問は28歳になってもまだ私を困惑させる。

この夏パキスタンでインターンをしていた時に物乞いのおじいちゃんにお金をあげようとした私をインドから来ていた別のインターン生、メイダが激しく抗議した。「Acumen Fundの方針はCharity じゃなくてChanceを、でしょ!罪悪感を和らげる為だけに一時しのぎの寄付なんてやめた方がいい。」と。

カンボジアでは最初、お金をあげられなかった。物乞いの人を上から見下ろしてお札をふい、と渡す行為にどうにも嫌悪感があったのだ。彼らが集めたお金を地元の悪い人たちに巻き上げられているだけ、というケースが有ることも知っていよいよやりにくくなった。

変化は2回目に行った時にカンボジアでお世話になったバイタク運転手サンとの出会い。御寺に行った時に参道に座る物乞いの人たちに一人、一人なんとも自然にお金を渡していたサンを見て、私も続いてみた。初めてまっすぐに物乞いのおばあちゃんの目を見ることができた。それまでは後ろめたくて見ないふりをしていた彼らの顔を、表情を、お礼を言いながら合わせるしわしわの手を見た。すーっと嫌悪感が消える感覚があったのだ。たったの一瞬でも彼らと向き合って少しのお金を通して触れあうことに悪いことなんかないんじゃないかと。

これ、メイダが言った「罪悪感を和らげる」心理だったのかなーと、パキスタンでの一件で一度片付いたはずのこの疑問がまたフツフツと湧いてくる。

ある人の言葉。“no good has ever come from feeling of guilty... The guilty do not pay attention to the object but only to themselves… to their anxieties.”

罪悪感を感じると人は問題そのものに光をあてることはせず、不安な気持ちに捉われるだけ。

根源的な問いは「あげるかあげないか」ではないのだろう。あげた人とあげる自分との関係を切り離すかどうかだと思う。罪悪感に捉われて関係のないものとして忘れ去るか、見つめた目やしわしわの手を忘れないかどうかだと思う。どうしてそうなってるのか考え続けることだと思う。私はお金を渡したおばあちゃんの手も、見ないふりをして通り過ぎたおばあちゃんの手も鮮明に覚えている。パキスタンで車からふんだくるようにお金を取って目も合わせずに立ち去った赤ちゃんを抱いた女性の表情も、お金の代わりに指人形をあげたらすごく喜んでいた子供の表情も、忘れない。

困惑した気持ちに縛られて身動きが出来ないなんてことがないように、ずっとこの問いと向き合っていくことが私に出来る唯一のことだと思う。

寄付ではなく社会投資、という開発業界に起こっている最近の大きな変化についても同じ。お金の集め方や回し方、みたいなテクニカルな問題は本質的ではなくて、その変化によってもたらされるあげる人ともらう人の間の関係性が重要なのだと思う。そこには政治があり、力関係があり、哲学があり、思想がある。切り離して忘れ去ることのない、しわしわの手から目を逸らさない、そういう社会投資のカタチを考えて行きたい。

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指人形に興味津津のパキスタンの子供たち
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by nanacorico0706 | 2010-10-25 12:40
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2年間の米国留学生活をゆるゆると綴ります・・・
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