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旅の途中



明けましておめでとうございます


と言うにはもはや遅すぎる感もありますが・・・
そして今更2010年を振り返ってみたりする印象に残った出来事ランキング。

1位はやはりアキュメンファンドパキスタンでのインターン。
これがきっかけでBOP、ソーシャルビジネス、CSR....などなどの広ーい興味分野から社会的投資、というテーマに修論のトピックを絞り込めた。3カ月の滞在中、充実!というよりはむしろモヤモヤしてウズウズしてグルグルになって実は消化不良で帰ってきたことが深く考えるきっかけにもなったように思う。今思えばあれで良かったのだ。

2位は出会いと別れ。10月、大事な人との別れがあって、糸の切れた凧のようになった。どこへでも行けるという軽さと、地面につながった確かなものが無い危うさと、両方受け止めてもっと強くしなやかになろうと思った。不思議なもので別れというのはいつも出会いを一緒に連れてくる。たくさんのステキな出会いに感謝。

3位は経済地理学の授業。
授業の内容も他の学生(みんな博士課程)のレベルも格段に高くて正直すっごくキツかった。けど、めちゃくちゃ楽しかった。毎週500ページぐらいのリーディングがもうすごく面白くて。貧困の問題と向き合った時に自分はやはり経済的な意味での貧困に興味があるのだということ、経済が社会において持つ意味、人間の幸福において持つ意味、に興味があるのだということ、を改めて気付かせてくれ、深く考えさせてくれた授業だった。

2011年はいよいよ卒業!就職!信じられない・・・
一体どこで何をしているのだろうか。自分に正直でありたいと思う。人にどう思われるか、を気にしてしまう弱い私だけど、本当に私が心の底から欲するものは何か、どんな人間としてどう生きて行きたいかにきちんと耳を傾けられるようにする。それが今年のチャレンジ。

大学時代に好きだった教授が川の上に掛っている橋に腕一本だけでしがみついている夢をよく見る、そういう心境で学問に当たっていると思う、と笑い話のように言っていた。それ以来そのイメージがずっと頭にある。人生は高みに向かって努力していく、というよりは何かにしがみついているようなものなのかも、と思う。しがみついた手を離してしまうものは常に自分であって他ではない。もういいかな、という囁きであって突風ではない。まだ、しがみついていたいと思う。涼しい顔をして一生しがみついていきたいと思う。

新しい年をこんなにワクワクした気持ちで迎えられる自分は幸せだ。いい年にしよう。そして世界中の人みんなが少しでもワクワクできますように!

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# by nanacorico0706 | 2011-01-12 07:54 | つれづれ

コミュニティベースの社会投資ファンドを作れないか、と妄想している。

コミュニティベースの社会投資ファンドを作れないか、と妄想している。_a0158818_1344177.jpg
コミュニティベースの社会投資ファンドを作れないか、と妄想している。今のインパクトインべスティングは基本的に先進国でファンドを作ってお金を調達して、世界中の社会企業に投資して、投資資金+利益が先進国のファンドに戻ってくる、という形。この先進国→途上国⇒先進国のお金の流れをローカルでグルグル回る、に出来ないか、というのが妄想。

アキュメンでインターンをしてたとき腑に落ちなかったのが投資資金はともかく、そこそこ高いリターンもニューヨーク本部へ戻っていくことだった。5年間で投資IRR18%前後、という投資があって、まあパキスタンというカントリーリスクとベンチャーってことを考慮すれば決して高くないけど、決して低くもないぞ、という印象。これだけの利益がごっそりアメリカに戻っていく。

何が腑に落ちなかったというと。

1.利益率高くするほど消費者価格が高くなりがち。住宅事業においては明らかに相関性があった。事業計画の時点でIRR○%、と織り込むわけなので、この利益率を達成できるような価格設定、コスト調整が課される。普通のマーケットで戦っている住宅事業者だったら当たり前に住宅の市場価格との兼ね合いでキャッシュフローを作っていくわけだが、BOPビジネスはそもそもマーケット価格、なんてものはない。安価に出来れば出来るほど貧しい人に届く。どこまで価格を下げるかは事業者の気合いとコミットメントだ。だからこそ、IRRゼロだったらもっともっと安くできて、もっともっと貧しい人にもリーチできるのに・・・と歯がゆい思い。

そもそもなぜアキュメンが「そこそこ」の利益率を投資先に求めるのか。ベースラインとしてあるのは、投資先の社会企業にゆくゆくは「Patient Capital」ではなく、従来の投資家に投資してもらえるようになってほしい、という方針。アキュメンの出すお金はスタートアップの支援段階のみを前提としていて、事業が軌道に乗ったらマーケットレベルの利益率を求めてくる投資家からお金を調達する、というのが理想型なのだ。となるとマーケットからあまりにも乖離した利益率では投資出来ない。願わくばマーケットレベルと同等の利益率で投資して、通常の投資家の呼び水としたい、という想いもある。結果、出来る限り高めの利益率を設定しようというインセンティブも働く。

2.現地でお金が循環しない。立ち上げたばかりの社会企業が一生懸命創り出した利益をもし自国内で、もしくは地元の経済に還してあげることができたら、もっと経済効果出るんじゃないか、と思った。社会投資なのだからもちろんアキュメンに返った利益はどこかで違う社会企業の為に使われる、それは素晴らしい。ただ、お金の流れだけ見ると多国籍企業の対外投資とあまり変わらなくて、投資先のローカルな経済へのインパクトが限られている。



もし、一定の大きさのコミュニティ内で社会企業に投資するファンドを作って、出資先企業は毎年税後利益の最低半分をファンドにプールすることにしたらどうだろうか?参加企業は、新規投資のニーズがあればファンド内で決めた低い利率でファンドからお金を借りることができる。インフラ整備や人材育成のような参加企業全体の利益になるプロジェクトにも資金拠出出来るようにすれば投資の効率も上がる。もちろん、最初の最初は外部からの立ち上げ資金援助が必要だろうけど一度循環し始めれば追加で外部資金の投入は要らなくなる。マーケットレベルの利益率を求める投資家におカネを返す必要が無いのでその分商品やサービスの価格を抑えられる。投資資金も生み出された利益も地元の経済に循環していく。

根源的には、先進国主導で社会投資のフレームワーク作りが進んでいる現状に違和感たっぷり、なのだ。ごく一部のImpact Investors達が投資指標を開発したり、ファンドスキームを考えたり、投資先を選んだり。重要なステークホルダーであるはずのおカネの受け手である社会企業、末端の受益者である途上国のコミュニティは一切議論に参加出来ない。寄付ではなく投資を、なんて聞こえはいいが結局先進国のおカネへの依存という意味では両者大差無いのではないか。現地の人が立ち上げて現地の人がルールを決めて、現地の人が運用する社会投資ファンド、出来ないだろうか?
# by nanacorico0706 | 2010-12-22 13:48 | つれづれ

ボーゲル会とマーケットと私


今年からボストンで毎月開かれているボーゲル会という勉強会に出席している。Japan as No1というアメリカを追い越す勢いだった日本を書いたベストセラーで知られるハーバードの社会学の教授、ボーゲル先生を囲んでボストン留学中の学生が将来の日本について語る、という伝統ある勉強会。学生、といっても大手の企業から派遣されているビジネスマンや省庁から派遣されている若手の国家公務員が多く、同年代から少し上のある程度社会経験を積まれた方々。昨日参加した会で個人的に「マーケット」の機能について考えさせられたので振り返りを書こうと思う。

テーマはエネルギー安全保障。資源を持たない国日本が如何にエネルギーを安定的に調達してくるか。大枠ではオイルショック以来石油依存度を減らしていく、というのが政府の方針で、石炭や原子力、リニューアブルエナジーなど色々試みられてきた数十年。とはいえ石油は今でも4割程度のエネルギー源で今後も輸入を続けることは避けられない。一方で、中国やインドの成長によって原油の需要は高まる一方、原油価格はあと25年の間に倍になると推定されている。さあ大変!どうする日本!というのがざっくりした文脈。

提案をしてみた。オイルって人類共通の生命線みたいなもので、同じようなエネルギー安全保障の問題に世界各国が直面しているんだったら思い切ってマーケットで価格管理するのはやめて国際的に安定供給をする仕組を作ったらいいんじゃないでしょうか?

ま、多少ぶっとんだ考え方だし「そうですね!」なんて答えを期待してたわけではない。そもそも発言し始めた時点で会場に広がる苦笑。

が、ちょっとびっくりしたのはゲスト参加されていた日本を代表する経済学者の先生に言われたこと。「そういうマーケットの機能を疑問視するような発言は非常に危険ですね。戦時の統制経済みたいになってしまう。きちんと経済学を勉強していないとこういうことになる」といったような趣旨。別にマーケットの機能を全面否定していたわけではなく、原油のような公共性の高い財は完全に市場を自由化するのは宜しくないのでは、と言いたかったのだが、「危険」という強い表現で諭されたことに少し面食らった。フリーマーケットへの警鐘は特に金融危機以来アメリカの経済学者からも聞かれるし、マーケットは万能ではない、という考え方は主流とは言わないまでも特に驚かれることもないと思っていたが違うらしい。

重ねて他の方からも諭される。「必要としている人のところに最適にモノを配分するのがマーケットの機能ですからね。それを無視しちゃいけませんね」と。重要と供給を通じた価格メカニズムによって市場が自然に財の適切な配分をしてくれる、というのが経済学の基本。だけど、「必要としている人のところにモノを配分」するというはちょっと語弊がある。マーケットが本当に「必要としている人のところにモノを適切に届けてくれる」のなら、最もエネルギーを必要としている貧しい国々にどうして届いてないのか。答えは簡単で、彼らは買うお金がないからだ。マーケットは必要としている人にモノを配分するのではない。必要としていて且つ「買う力が有る」ひとのところに配分するだけだ。「ニーズ」と「需要」は違う。どれだけ途上国にneeds とwantsがあろうとも、オイルの世界市場に参加出来るだけの購買力が無い国が多いのだ。彼らの「ニーズ」はずっと「需要」にカウントしてもらえない。

先ほどの経済学の先生は悪気なくこの事実を認めた。「確かにマーケットはお金の入ったポケットの方に動きますからね、お金持ちが得をして貧しい人が苦しむ、ということはある。だけどマーケットを否定しちゃいかん。それは危険な考えです」と。

ああ、こんなにも堂々と貧困が是認されるのか。ナイーブかもしれません。でもちょっとショックだったなー。メインストリームの経済学者だったら、こういった考えはきっと特別じゃないんだろうな。マーケットに参加出来ない貧しい人は国が福祉で面倒見るんです、という正当化もあるだろう。じゃ、高騰するオイルマーケットに参加できない最貧困国はどうすればいいのだろう。世銀が?国連が?そういった機関が戦後60年介入し続けて何も変わっていないのが今の途上国の現状だ。

修論の担当教授がこの大学はリベラルの天国みたいなところだ、と言っていた意味が分かる気がする。大学を一歩出れば全く違う世界観を持っている人が溢れているのだ。当たり前ですね。

でも無力感を感じてはいけない。自分の考え方を意固地になって守る必要はないけれど、スタンスを持つということは大事。そして、倫理的なコミットメントは無くしちゃいけない。経済はお金持ちをお金持ちにするだけのシステムではいけないのだ。もっと勉強しよう。もっと行動もしよう。おかしい、と思うものとまっすぐに向き合っていく、ちゃんと戦っていく。
# by nanacorico0706 | 2010-12-01 12:21 | つれづれ

原丈人『新しい資本主義』


原丈人さんの『新しい資本主義』、読了。原丈人『新しい資本主義』_a0158818_072862.jpgソーシャルインベストメントについてずっと考えている今日この頃。社会的投資、というとなんだかふわっと社会貢献的なイメージあるけど、結局本質は(少なくとも今のところ)「金融業」であると思う。「金融」の果たす役割って何だろうということのヒントになることも多く、さらっと読んだわりにインスピレーションが多かったので備忘録。

「金融は本来脇役」
当り前の事実だけどそう捉えられていなかったのがここ何年かの風潮だったと思う。金融は「あくまで縁の下の力持ちであって主役や起業家であり企業人」「産業の中心にはなりえない金融業が我が物顔でこれほどまでバブルによって拡大してしまった」。ソーシャルインベストメントは「業」としてわがもの顔バブルにならないか?
2007年のヘッジファンド上位10人の個人所得を合計するとトヨタの2007年度純利益を上回る額だった、という話は衝撃的。気持ち悪い。

「株主目線の経営指標」
IRRやROEなど、短期的な株主利益を測るのに便利な指標がビジネス界ではスタンダード。社会人になった時には既に常識として叩き込まれたので疑問に思うこと無く受け入れていた。指標ってどこか科学的なものという先入観があるものでどういう歴史的・社会的背景があってそういう指標が主流になったのか、というところを意識することって少ない。でも指標もシンボルであり、意味であり、価値判断の固まり。IRRはソーシャルインベストメントでも普通に使われているけど、どうなんだろうか。投資資金の回収は早ければ早いほどいい、という固定観念を刷り込んでないだろうか?

「内部留保を大事に」
内部留保の配当による吐き出しのプレッシャーが長期視点の研究開発を阻害してきた、という。この問題、BOP向け消費者ビジネスの文脈で考えると価格に大きく影響すると思っている。BOP向け商品の難関の一つは「低価格化」だけど、マーケットレベルの株主利益・配当を念頭に置いて事業モデルを作ると必然的にマージンが増えて価格が上がる。株主なんていない方がいいんじゃないか、とさえ思う。株主がいなければ何かあったときの保険としてうすーく内部留保を確保するだけで良くて、その分ギリギリまで価格を下げられる。アキュメンファンドのような社会的投資家の回収目標期間は5~7年。これって本当に長期か?そもそも投資先がきちんとサステナブルになっているのだったら回収しないで半永久的にそのまま回せばいいのだし、投資先の会社内で内部留保をどんどん再投資すれば事業のスケールは大きくなっていく。なぜ回収する必要があるんだろう?

「新しい株式会社」
原さんが手掛けているBracNetでは利益の40%を教育・医療といった公益事業に支出できるようになっているという。日本でも稼いだお金の全部、または半分くらいまでは公益のために使えるような株式会社を作れないか、と考えているそう。
利益は本来目的ではなくてただの結果だと思う。企業が行う経済活動の目的は例えば食糧の提供とか、インフラの提供とか、幸せの提供とか、そういうところにあるわけで、それを実行した結果残るものが利益であって、どれだけ残るかはそんなに大事じゃないはず。ドラッカーの言葉を借りれば利益は手段。将来に亘って幸せの提供という会社の使命を果たす為に、最低限倒産しちゃいけない、その為の手段。
「手段」であるはずの利益を「目的」とした投資家が参入すると本来の事業目的と別のベクトルが働く。厄介なのは彼らが「Owner」であることだと思う。株主というのは法的に会社の所有者なのだ。そうなると力関係は構造的には所有者が上。利益の配分にもこの構造が大きく影響する。ソーシャルインベストメントの現状のアプローチは「投資目的」を「経済的利益」だけではなく、「公益」も含めて考える人たちを増やしていこうというもの。ただし「投資家」「Owner」というステータスに変わりはなく、構造上の所有形態はそのまま。現状では「通常の投資家みたいな短期的利益は要求しませんよ」という個々人の倫理的コミットメントだけで法律上の規制もない。どの程度が高い利益でどの程度が短期的なのかは非常に曖昧。人々の投資に対する価値観が変わること、倫理観をマーケットに組み込むことは大事だと思うけど、その価値観を反映した形でマーケットの構造やルール自体を変えることも平行して必要と思う。


「全ての企業は中小企業になっていく」
想像性や柔軟性を保つためには企業のサイズは大き過ぎちゃダメだ、というお話。シュンペーターの主張とだぶる気がして興味深かった。ちょっと視点は違うが、利益追求型投資家の話に戻って、中小企業化をするというのは会社の自立性を保つことにもなると思う。もっというと、投資家、いらなくなるのではないかと。例えば税後利益の全部をコミュニティの共有ファンドに寄付して、プールしたお金から市場よりだいぶ安い金利で借り入れが出来るようにしたら投資家なんて呼び込まなくても継続的に事業を回していけるのではないか。立ち上げ資金は公的援助が必要かもしれないけど、その後は参加企業の合意で採算が取れるように利率を管理していけば、サステナブルになるのではないかと思う。それだと事業の規模拡大に限界がある、大企業の規模の経済に対抗できない、という反駁もありそうだが、原さん理論的には大企業ほど柔軟性を失って滅びて行く、全ての企業は中小企業化すべし、ということ。

ざっくりしたアイディアを述べている本ではあるけれど、興味のあるトピックが多く色々と刺激を受けた。公益資本主義、色んなところで議論されているみたいなので追ってみたい。
# by nanacorico0706 | 2010-11-23 00:10 | 読書

分からない、を大事にする


つい先日ある方がTwitterで「肯定と否定の間に『分からない』、という淡々とした態度がある」ということをつぶやかれていて、なるほど、と思った。

というのも、少し前にある非営利団体に所属されている人とお話していた時から気になっていたことがあったのだ。古くて大きな団体で新しい事業を立ち上げられたその方は、まず部長に提案を持っていった。

部長「うーん、面白そうだけど俺よく分からないから理事長に相談してみよう」

理事長に企画書を持っていく。

理事長「うーん、新奇性があっていいけどイマイチ分からないから代表のとこ持っていっちゃおう」

マジ?!という感じで戸惑いつつも団体のトップにまで話が行ったところ代表の方すごく気に入っちゃう。新奇事業実現。

という話。聞きながら、自分で判断を下そうとしない、典型的な日本的意思決定ね・・・という想いと、「分からん」と素直に言えちゃう潔さ、すごいかも、そして部下としてはそういう人有難いかも、とも思った。人間どうしても理解できない⇒否定。となりがちだから。

そして最初にあげたつぶやきを発見。否定と肯定の間に有る「分からない」という淡々とした態度。それは決して悪いことではない。もちろん最終的には決断をしなきゃいけないことばかりだけど、分からないと認めることは分かった気にならないということでもある。分からないと認めることで勉強したり、相談したり、考えたりしてそのトピックと向き合い続けることになる。この淡々とした営み、実はすごく大事なのではないかと思ったのです。

たまに、迷いなく生きている(ように見える)人が羨ましくなる。これが正しい、とはっきり軸を持っている人。自分のやっていることは天職だ、と胸をはって言える人。そういう人の言葉には力が有り、人を説得するオーラがある。自分はいつも何が正しいのか迷ってばかりいるのでそういう人がすごく羨ましい。

でも、分からない、ということに焦りを感じなくてもいいのかもしれない、と思った。むしろ、「分からない」という感覚を大事にしていこうとも思う。白黒はっきりしなきゃいけないことも多いけれど、自分が向かっている大きな「?」についてはそんなに焦って答えを出さなくていいのだ。白にも見えれば黒にも見えるし・・・・もう分からん!という混乱した気持ちを淡々と受け止めて行こうと思う。そして考え続けようと思う。

迷いなく生きている(ように見える)人も、実はいつもこういう不安感と戦っているのかもしれない、と思ったのは、アキュメンファンドのジャクリーンさんからメールをもらった時だ。BOP向けの水ビジネスはただでさえ何もしない政府をますます「やんなくていいや」と思わせてしまうのではないか?という少々批判的な問題提起に対して、真っ先に返信をくれたのがなんと代表のジャクリーンさんだった。アキュメンとして考え続けなきゃいけない問題だと思ってます、みんな意見出して!と。白でも黒でもなくて、みんなで考えて行きたい、という答え。

公の場ではかなりポジティブで、まっすぐで、キラキラで、ソーシャルビジネスのカリスマ!みたいなキャラだけど、ああ、実はすごく色んなことを迷ったり自問しながらトップをやっているのだろうな、とその時になんとなく感じた。そしてそのスペースを保ちながら行動をし続けていること、すごいことだと思った。

「分からない」と思ったまま行動出来なくなってはいけないけれど、分かった気になるよりは、分からないことと対峙し続けていくべきなのだろうと思う。
# by nanacorico0706 | 2010-11-08 07:37 | つれづれ


2年間の米国留学生活をゆるゆると綴ります・・・

by nanacorico0706